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執筆者の写真o_kataka

令和6年能登半島地震による神社仏閣の被害記録

令和6年能登半島地震による神社仏閣の被害記録

能登半島地震直後のコンビニのパンコーナー
能登半島地震直後のコンビニのパンコーナー

2024年1月1日16時10分に発生した能登半島地震。その時、私は石川県白山市にいました。大きく揺れた後、津波警報が出され海に近い場所にいたのでとりあえず能美市方面へ車を走らせました。能美市は渋滞が発生しコンビニのパンなどの食料品や水は売れ切れていました。女性用トイレにもちょっとした行列ができていました。



翌日、テレビやネットで情報収集を行ったとき能登国一之宮の気多大社のホームページを見ていると参拝可能と表示されていたので羽咋市へ向かいました。後で知ったのですが羽咋市は断水が多く発生していました。向かう途中、コンビニはほとんど営業をやってなく、営業を行っていてもトイレの使用を中止していました。


能登国一之宮気多大社入口

気多大社はホームページの記載通り、灯篭がひとつ倒壊しただけで問題なく参拝できました。


ただ、正月3ヶ日でしたが参拝者は10人もいません。参道には多くの夜店が暇そうに客待ちをしていました。お昼過ぎでしたがすでに閉店準備をしているお店もありました。


遠くから緊急車のサイレンの音が常に鳴っていてもしかしたら羽咋市もあまり状態は良くないのかなと感じました。


のちにニュースで確認しましたが羽咋市も被害が結構出ていましたがこの辺りが分岐点かなとも感じました。



 気多大社の帰りに地元の神社を巡りました。写真は羽咋市大川町の金毘羅神社です。この大川地区を車で進むと地割れや段差が多くとても驚きました。神社に到着するとまずは石柱が見事に倒れて折れていました。参道を通ると拝殿前に地割れがありました。拝殿の周りを確認すると神社の本殿自体が沈んでいるように感じました。拝殿の扉が少し開いていました。開けようとしましたがビクともせず見た目は普通ですが、全体的に歪んでいるだと思いました。


 この羽咋市大川町は羽咋川沿いにある地域で羽咋川と海が繋がる場所が目の前に広がります。大川町の大川は羽咋川を指します。かつての大川町はこの羽咋川の蛇行により出来た沼地や浸食崖だったと言われています。そこを昭和33年の羽咋川の改修工事に伴い振興住宅地になった地域です。地盤が緩い地域なのかなと感じました。


 メディアで確認したのですが石川県河北郡内灘町では液状化現象によって電柱が倒れ地割れがひどく住宅の倒壊がひどいと聞きました。この内灘地区も砂丘と河北潟に挟まれ地盤の緩い地域。福井県でも石川県との県境にある北潟湖付近では被害が大きいと聞きます。そのすべてに沼地や湖が関連していることが分かります。


 神社の社伝や歴史で確認できる沼地。現在ではなかなか少なくなった沼地は昭和の高度経済成長期にできた住宅地を造るため埋められました。しかし沼地何千年もの歴史の中でできた地形。そんな地形を埋め立てたからと言って強固な地盤を手に入れたわけではないということが分かります

 

 羽咋市島出町の魚取神社。羽咋川の南側で挟んで先ほどの大川地区の対岸に位置します。神社は少し高い位置に鎮座し地割れは確認できなかったです。ここは地名に『』があることが古くからの土地の起伏の状態が確認できます。


 古くは沼地の多かった平野部。そんな平野部に丘のように盛り上がった土地をと呼び人々は集落を形成してきました。その為、という字が含まれる地名は周りに比べ盛り上がった地形だったことが多いです。もしかすると地盤的には強いのかもしれません。


 ここで倒壊している灯篭。大正10年8月と刻まれています。大正10年は西暦1921年ですので100年の時を超えて現代に残る灯篭だという事が分かります。年季の入った石の風化は他の石と比べても違いははっきり分かります。今後の神社の修理など、どうなるのかはわかりませんがこの歴史ある灯篭は残してほしいなと思います。地震が落ち着いたら是非、また参拝したい神社です。

 

 能登方面への神社巡りはやめておこうと加賀・小松方面への神社巡りをしていた2024年1月8日。加賀市での神社の破損がひどいことが分かりました。白山市や金沢市などは比較的被害が少ない中、加賀市での被害の大きさに驚きました。そういえば石川県の県境の福井県あわら市の北潟地区も被害が大きいと聞いていましたが、もしかすると加賀市も被害は大きかったのかもしれません。


 地割れなどは確認できません。鳥居に掛かっていた社額が下に落ち粉々になっていました社額は銅線などで引っかかっているだけの所も多く古いものも多くみられます。地震が発生したときやその後は鳥居の社額に気を付けなければいけないことが分かります。


 きれいな石塔が倒れていました。これは平成4年(1992年)建立とありました。これは残念ながら阪神大震災の3年前で耐震などがされていない可能性が高いと思います。この平成7年(1995年)の前と後では石塔などの構造に大きな違いがあると考えられます。阪神大震災の後は一気に建造物の耐震が注目されました。石材店の事はあまりわからないのですが、今後、石川県でも神社の耐震などが行われる可能性があります。しかし、高齢化社会や過疎化などで神社の修繕や新規奉納は年々厳しくなっていくと考えられます。不死鳥の如く蘇る越前国では神社をできるだけ良い状態で残していけるように何かできることがないか考え実行していきたいと考えています。

 

 街中のお地蔵さん、不動明王像や石の祠など、もし地震で壊れた古いそれらの石像などは復興されないでしょう。しかし、そこのあるのはそこにある理由があります。神社巡りを加速し地域に残る歴史や建造物の写真を撮って後世に残していきたい!不死鳥の如く蘇る越前国の使命かなと感じています!

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