坂井郡33座のひとつ国神神社は??【式内社】丸岡城に鎮座していた國神神社と考える!
- o_kataka
- 5月5日
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越前国に鎮座する式内社を1社づつクローズアップ!
継体天皇の影響もあり全国と比べても式内社の多い越前国。空白の時代といわれる古墳時代や継体天皇の謎が社伝に残っていることが多く越前国の式内社を調べることはその謎に迫る事でもあります!

式内社とは延喜式と呼ばれる平安時代中期にまとめられた書物にまとめられた神社。国の決まりや儀式のやり方などが記載された書物でそのすべてが現在も現存している貴重な書物(国宝)。その9,10巻には2861社の神社がまとめられている。神社名と格、簡単な場所が記載された名簿のようなものでこの9,10巻を延喜式神名帳と呼ぶ。

坂井郡とは現在の坂井市・あわら市・福井市の一部と考えられ延喜式神名帳には33社が記載されています。これは畿内を除くと突出して多く当時の坂井郡が朝廷と深く関わっていたことがわかります。また、越前が輩出した継体天皇の母・振媛が坂井郡出身という事から坂井郡にはかなり大きな豪族がいたことは間違いありません。

今回のクローズアップ式内社は
式内社 國神神社
鎮座地 坂井市丸岡町石城戸
御祭神 椀子皇子 相殿・振媛命 応神天皇 有馬晴信公
神紋 八剣輪宝
境内社 稲荷神社
御朱印 あり
丸岡町の中心部に鎮座する國神神社。きれいに整備され初詣や丸岡祭りなどではたくさんの人々でにぎわいます。
式内社 國神神社由緒

『「延喜式」神名帳に、その名が残る式内社で、一二〇〇年以前の創建である。社伝によると、継体天皇と倭媛との第二の皇子である·椀子皇子が隆誕した地「磨留古乎加」に皇子の胞衣(=胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めて神明宮とされたのが起こりとされる。 天正四年に、柴田勝豊(柴田勝家の甥)が「磨留古乎加」に丸岡城を築城した際に、元あった場所から現在地に移された。「磨留古乎加」は「丸岡」の地名の由来となった。
歴代丸岡城主の保護と崇敬を受けて、本多家時代の丸岡城下を描いた「円陵略」「丸岡城下絵図」「正保城絵図」のうち「越前国丸岡城之絵図」(国立公文書館蔵)にも、丸岡城郭の南側に「神明社」として描かれている。もと豊原寺の院家のひとつで丸岡城下に移った「宝積院」が、神社の別当寺として隣接していたという。
明治三年に、高向神社を合祀し、同七年には県社に列することになった。昭和二十三年六月の福井地震によって、社殿など倒壊したが同三十七年七月に本殿·拝殿が再建された。また丸岡藩有馬家の祖である有馬晴信を祀った霞城神社も、福井地震の後に本社に合祀された。
室町時代までさかのぼる「白山参詣曼茶羅図」(福井県指定文化財)をはじめ、丸岡城主、本多重昭が奉納したと伝える天国宝剣、閻浮壇金千手観音など、多くの文化財が残っている。また境内には、最後の丸岡城主で幕府の老中もつとめた有馬道純(一八三七~一九〇三)が寄進した灯篭もある。
現在でも「おしんめさん」の愛称で呼ばれ、その春·秋季の例大祭は「丸岡祭」「めめんじゃこ祭」として、毎年多くの人で賑わう。』國神神社境内の説明板より

≪注目ポイント≫
・もともとは現在、丸岡城のある場所に鎮座していたが柴田勝豊が丸岡城築城の為、現在地に移動。
・丸岡城のある小高い丘を磨留古乎加(まるこのおか)と呼び、継体天皇の第二皇子の椀子皇子(まるこのおうじ)が降誕(誕生すること)した地とされる。その為、継体天皇が生きていた西暦500年前後にはこの地には継体天皇の館などの居住する場所があったと考えられる。
・鎮座する地域の丸岡町石城戸はもとは石木戸と書き白山豊原寺の地名と言われています。柴田勝豊が豊原から現在の丸岡城へ政治・軍事などの中枢を移動させたことにより豊原にあった寺社なども丸岡城周辺に移動した。國神神社は別当寺に豊原寺の院家のひとつ宝積院が務め神社と隣接していた
ので地名なども移動したと考えられる。
・椀子皇子の母・倭媛(やまとひめ)は古代豪族・三尾氏の出と言われています。この三尾氏は日野川沿いで勢力を広げたと言われていて日野川沿いでは三尾氏の話が伝わります。三尾氏はあわら市御簾尾(みすのお)との関係も言われますが詳細は分かりません。ただ地理的には近くなります。
継体天皇は日本書紀に登場するのは誕生した時と天皇(当時は大王)になる57歳からの時期。若き日の継体天皇の話は記載されておらず謎に包まれています。しかし、この越前国には継体天皇の子供の誕生にまつわる話が多く残っているます。若き日の継体天皇の話が日本書紀や古事記よりも多く残る越前国での話をまとめることは継体天皇の若き日の生活が今に蘇る貴重な情報です。
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