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突如現れた福井城・下馬門!歴史保存が難しい福井の問題点!



2022年12月に突然現れた福井城の一部、下馬門の土橋。現在行われている福井駅前再開発の工事中にビルの建設予定地、通称・三角地帯の地下から蘇った


現在は本丸とその周りのお堀のみが残る福井城。丸で囲んだ下馬門へ向かう土橋が今回、発見された。


その名前の通り、馬から降りて入らなければいけない事から下馬門と呼ばれる。


お堀への橋には通常、木製の橋と石や土で作られた土橋があり、木製の橋は敵が攻めてきたときは破壊し通らせない為、木製で作られる。今回は土橋の方が発見された。

 

写真は西側から見た土橋、東側から見た土橋、この土橋に使われていたとされる笏谷石。1個の重さは1トンともいわれかなりの大きさになります。橋の幅は約18メートル。

 

これは東側から見た土橋の石垣です。赤の点線から上の石は少し赤茶色でその下は笏谷石のいわゆる笏谷ブルーと呼ばれる笏谷石の本来の色です。この赤点線の石垣の色の違いはここまでお堀の水があったことを意味します。さらにその下のピンクの線から下は荒い石でピンクの線より上はしっかりと積まれた石になっています。これは人々が見える範囲ではいわゆる化粧石の石垣Verとも言え、見た目の美しさを重視した石垣と土台となる荒い石の境目となります


ここまでしっかりと詳細が分かる石垣は凄いなと感じました。まさにお堀に水があった下馬門土橋の様子が思い浮かびます!

 


現在、2023年1月は福井駅前は北陸新幹線開業に向けた再開発が進んでいます。その工事中に現れたこの下馬門の土橋はこのまま埋められる可能性が高い。もう二度と見ることはできない可能性があります。なぜ、保存できないのか?


この疑問に説明をしてくださった方がおしゃっていた言葉が胸を刺します。金沢城はお城から離れた場所に金沢駅がある。福井は福井城の城内に福井駅を造った。


また、福井県は戦時中に福井空襲を受け戦後に福井大震災を受けた。焼け野原となった福井平野に住む先人たちは灰となった家やガラクタを福井城のお堀に捨て新しく住む場所を確保した。


本来、福井城本丸は一番高いところにあり二の丸、三の丸は低い位置にあった。しかしこの福井空襲と福井大震災によって堀は埋まり、昭和の開発によって街は平地になっていった。だから、今回たった2,3メートル掘っただけでこの下馬門が見つかったのだ。


これは土橋に刺さったPCパイル杭。建築のことは全然わからないが建物の土台となるものらしい。そんな杭が土橋に多く刺さっている。これは戦後の開発のものらしい。ということは戦後、工事した方はここが下馬門のある場所だと知っていたのかな?


加賀百万石・最大の外様大名の前田家。その前田家が攻めてくることを1番に考えその縄張りは徳川家康が直々に行ったともいわれる。金沢城の4倍の広さを誇った福井城はその広さゆえに城の中に駅ができ、街ができた。


もしかして、福井駅前や本丸周辺を掘り起こすとまだまだいろんなものが出てくるのか?それは不可能なことですが…。西暦2100年を超えると今の再開発から80年を超え、また再開発が行われるとしたらその時にまた福井城の一部が現れるかもしれない。その時、その見つかったものには令和の建設で使われた杭が刺さっているのかもしれません。


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