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細呂木郷の中心地・神宮寺城跡の寺から城への変貌!

更新日:4月2日



 令和3年3月25日にあわら市指定文化財の指定を受けた神宮寺城跡。その説明には加賀一向一揆に対する最前線の重要拠点とあり、それ以上の説明はない。不思議に思いこの神宮寺城について深堀りしていくと南北朝時代、さらに奈良時代にまでさかのぼり興味深い内容がぞくぞくと出てきたのでここにまとめてみます!

 
  1. 各地に残る『神宮寺』の意味

  2. 式内社・保曽呂伎神社を管理した?神宮寺

  3. 神宮寺はいつから神宮寺城になったのか?

 

1,各地に残る『神宮寺』の意味


 日本各地に残る神宮寺と呼ばれる地域やお寺。その歴史は奈良時代にまでさかのぼります。


 日本古来の神々を祀る日本神道の考えから神宮が作られ各地に広がります。これは現在の神社のもととなるもので現在でも伊勢神宮、明治神宮などその名称は残ります。奈良時代に、その日本神道の文化の中に中国から仏教が入ってきます。平安時代には仏教は全国に広がります。ここで日本人の凄いところですが日本古来の日本神道と中国の仏教を合わせた独自の考え方を始めたのです。それが神仏習合という考え方です。


 本来、日本神道の神々は姿がなく神社には剣や鏡、勾玉を祀りました。ところがこの神仏習合の考え方では日本の神々が仏の仮の姿を利用し我々、人間の世界に現れる権現という考え方が出てきた。


 つまり、白山神社に祀られているイザナミは十一面観音の仮の姿を利用し人々の前に姿を現し白山権現と呼ぶ。春日神社に祀られているタケミカヅチは不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)の仮の姿を利用し人々の前に現れ春日権現と呼ぶ。また、その神社に祀ってあるすべての神仏を合わせて春日権現、春日大権現などと呼ぶようになります。



 写真は福井市大窪町の白山神社の御祭神はイザナミ。境内には十一面観音がある。 





そして各地のの守護神として祀られた神社を管理するための寺が出来てきます。このお寺を神宮寺と呼びます。


 奈良県の春日大社の神宮寺は興福寺であり興福寺は藤原家の菩提寺でもあるので越前国北部の荘園時代は興福寺領が多く藤原家の影響力が強かった。春日神社が守護神として祀られてそれを管理する為に神宮寺が建てられました。そしてそのお寺には藤原家の関係者がいるという形です。



2、式内社・保曽呂伎神社を管理した?神宮寺


 ではこのあわら市の神宮寺はどこの神社を管理していたのか?


 この神宮寺城跡の入り口、向かって左(西側)には指中地区・指中神社が鎮座し、右(東側)には沢地区・春日神社が鎮座しています。この春日神社は式内社・保曽呂伎神社と言われています。沢地区に伝わる話として沢地区は『春日明神をお護りするために来た人々によってはじめられ有房家の先祖は藤原氏で春日明神と共に奈良から来てその分家は7軒に及ぶ』と伝えられる。


 また指中地区はもともと伊比政所村(いひまんどころ)と呼ばれ荘園時代の役所が置かれた地とされます。その役所が現在の指中神社だと伝わります。室町時代にはなりますが当時の検地には春日神社に約六町、八幡宮(ご祭神などから指中神社と考えます)が四町六反、神宮寺が八町三反とあり約二十町近い田畑がここ沢・指中地区にあったことが分かります。







 この細呂木郷の中心地と考えられるこの神宮寺城付近。地域の守護神を沢地区の春日神社に置き、指中地区に政所(現在の役場的な役割)が置かれその間に保曽呂伎神社を管理する神宮寺が置かれたと考えられます。


3、神宮寺はいつから神宮寺城になったのか?


 そんな神宮寺をお城に変えた人がいます。南北朝時代の南朝方の武将・畑時能(はたときよし)です

太平記には『新田義貞に味方した加賀国畑城の城主・畑時能が川口庄を守る拠点とし出城・細呂木城を築き、更に指野に川口砦を構え畑屋右馬助が三千騎をもって守り、延元三年(1338年)に出陣し、斯波高経の大軍を相手に戦い打ち破った』と記されている。また、畑時能も出陣し高須の山城に籠り足利の大軍をいたみつけた。とあります。写真は高須山山頂にある畑時能。 


 実際、太平記には神宮寺城のことは記載されていませんが時代的にこの時、この神宮寺は畑時能により拠点の一つになったことは容易に想像できます。細呂木城を中心に造られた砦のひとつ神宮寺砦がここに誕生します。


 その後、応仁の乱が下火になったころ神宮寺辺りで再度、激戦が行われます。それは越前国の主導権を争う朝倉家と甲斐家の戦いです。この戦いは幾度も行われ、その争いの中、一向一揆が侵入するという三つ巴の戦いでした。そんな中、この地を抑えたのが越前朝倉氏です。朝倉氏は荘園の制度を尊重しその制度を維持しつつも朝倉家の支配下に置きました。沢地区の春日神社にも代々参拝していました。そうなると神宮寺砦は朝倉氏によって大切に保護されたと考えられます。また、越前国と加賀の国境に近いこの神宮寺を城として整備し一向一揆対策の拠点としたと考えます。ここに現在に残る神宮寺城の話とつながります。神宮寺城の完成です。

 

入口に2022年にあわら市が建てた門、本堂跡、本堂跡に残る地蔵像


本堂跡には石塔・石板が多く残る。奥へと進むと曲輪跡がいくつかあり案内がされている。

 

 しかし、織田信長が朝倉氏を滅ぼすと織田信長は古くからの荘園をことごとく没収していき坂井郡の春日神社をはじめこの神宮寺も兵火のため消滅した。こののち常楽院として再興を目指したがそれもかなわず、享保4年(1719年)に春日神社は再興された。つまり、神宮寺城跡は織田信長の兵火にあった当時の面影をそのまま残している可能性が高い

 

 神宮寺城跡はそこまで大きくはないですが細呂木地区一帯を南朝方3000の兵が守った砦のひとつと考え、織田信長に焼き払われた。この石像や石塔が見てきた風景は越前国の武士が一番、熱かった時代なのかもしれません!



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