奈良時代から平安時代にかけ、朝廷内で権勢を誇った公家の藤原氏一族のルーツは、越前の「藤島⇒“藤原”」であると、以下の通り、サバ読み歴史ロマンを物語ることが出来る。
1. 地名はある特定の土地につけられた固有の名で、ある特定の地域が,他の人に必要な固有の内容をもって伝える為に命名されたこと、更には、縄文語は現在の日本語とほとんど同じとする学説があることは第10話で説明した。
これ等学説に基づけば、森羅万象の個々を示し今に繋がる言葉、例えば、自然の植物名を示す「フジ=藤」や地形名を示す「シマ=島」等の呼称、更には、固有の地名を表す複合語の「ノ・ハラ⇒野原」や「フジ・ワラ=藤原」等は、多少の発音・音韻変化があったにしても縄文時代から存在した古地名であると比定出来る。
名字は、自分の所領や出身地である地名を名乗ったこと、また弥生時代以降には、部族や血縁集団を表す「氏」や役割分担を表す「姓」が、政策的に名付けられ、名字として伝承されたことは、第14話でも解説の通りである。
日本全国には、古代河川が氾濫・蛇行する過程で形成された中州島、自然堤防、後背湿地や淵の地形を、単に「シマ=島・嶋」や「淵・渕」と呼び、今に残る地名が各所に存在する。
但し、一文字以上で構成する地名には、固有の特徴や目的をもって命名された可能性が高い。従い、現在の福井市藤島地区の地名由来は、上記で説明の通り、縄文中期から弥生時代にかけ、当時の重要な生活資源である「藤の木」の繁茂した中州島の特徴を示す目的、若しくは、その住民や支配者が領地として縄張りする目的で命名された「藤の島⇒藤島」が、その地名由来であると比定出来る。
2. 山形県鶴岡市に存在する「藤島」の地名由来を、「藤島の藤は当て字で、本来は樋島、川・堰で用水を渡す多くの樋があることに由来する」説(1998年)とか、「川の縁が微高地で島状であることから縁島とし、フチジマがフジシマとなり、佳字の藤を当てて藤島になったのが由来」とする説(2004年頃)を唱えられた郷土歴史研究家がおられる。
但し、これ等諸説は、鯖江市が公表する地名由来の一説、「湧水(沢)の小川(江)が多い土地=沢江⇒鯖江に変化した」との説(1995年)に似て、漢字伝来以降の近世の語呂合わせ的仮説で、縄文・弥生の古代人が名付けたであろう単純だが伝達性も良く、生活感や地域感に溢れ、歴史背景を秘め今に残る「古地名」イメージにも繋がりにくい。
また、縄文海進ピーク時には、山形県の庄内平野は海水が流入し海湾入江であったことがP/Cソフト「スーパー地形・海進シュミレーション」からも読み取れる。
越前の「藤島」と同様に、最上川の支流:藤島川沿いに形成された「藤の繁茂する島→藤島」が、地名由来であったと比定できる。 更には、庄内平野は、古代越前が本拠であった越国の北限支配地であったことから古代の越前鯖江地区と酒田・鶴岡地区には、人的・文化的交流もあった筈。
もしかして、同じ地形の呼称が越前藤島から鶴岡藤島に伝搬された(若しくは、その逆の)可能性もあり、福井地区では発見できていないが、酒田鶴岡地区では、古代から「藤ツタ」を繊維素材として栽培収穫した痕跡や伝承、或いは、藤の花を愛でた古代文化等が残っているのではと興味深い。又、ルーツは「越前の白﨑」を名乗った酒田の豪商越前屋白﨑五郎衛門家の存在も意義深い。
3. 縄文海進時代の恐らく4千年もの期間、穏やかな海湾入江であった鯖波・鯖江地区は、東シナ海海洋文明交流圏にも属し、高度な越前縄文文化が発祥発展した。
鯖波・鯖江中心とする古奥越前地区では、縄文(海神)神道が興ると共に部族(国造り)意識が高まった。 海退期の縄文後期に入ると高地部の鯖波峡湾が鯖波谷底平野に変化し、鉄器・紙等の物作り文化と共に、稲作農耕発祥・発展の地となったことは第13話でも解説の通り。
その後、縄文海退の北上に伴い、弥生時代から古墳時代にかけ、物作り文化と共に稲作農耕も、南の高地部の古奥越前地区から、北の低地部中州島であった藤島地区を中心に現在の坂井平野地区に変遷拡大した。 この結果、米の収穫量は著しく増加し、飛躍的な人口増加をもたらすと共に、支配層も勢力を拡大し、徐々に富国強兵な古代王権国を造り上げたと比定できる。
因みに、藤島町には、林・藤島弥生遺跡や藤島城址が遺されていて、弥生時代から多くの越前人が住み始め、その後の支配層が城塞を築ける程の古九頭竜湖に浮き出た広大な微高地の中州島であった事が窺える。又、藤島地区から望める東側、松岡~丸岡の東側後背山頂には、古九頭竜湖を取囲み、王権国家の権勢を誇示するが如きに、多くの古墳群が存在している。 これ等古墳群の存在は、3~5世紀にかけ、越前王権族の支配地が、農耕民と共に南の越前地区から北の藤島・丸岡地区に移動・拡大した証でもある。
4. 第26代継体天皇(男大迹王450?~531)を輩出した当時の越前王権も、豊かな穀倉地帯に変貌した藤島地区と住民・部族も配下に治め、日本全国屈指の権勢を誇ったに違いない。
当然の事乍ら、ヤマト王権を奪取継承する為には、男大迹王権生え抜きの部下である大勢の軍師・神祇官・武者そして配下の首領等々を越前から引き連れての軍行、大和入りであったであろう。 更には、その後の大和朝廷には、多くの越前ゆかりの人材が任官登用され、その子孫も、先祖の出自「越前は藤原」の誇りを引き継ぎながら奈良や京都の都に残った筈と仮説をたてることが出来るのである。
「藤島」の地名初出は、1183年に源義仲が藤島七郷を平泉寺に寄進したことが「平家物語」に記述されている。又、藤島の地を名字とするものは平安末期からみえ、藤島左衛門助延(篠原合戦1183年時代)や、鎌倉期の藤島三郎の乱が「吾妻鏡」(1300年頃編纂)に記述されている。 しかし、越前における地名「藤島」や「藤原」は、鯖が獲れた「鯖波」「鯖江」の古地名と同様に、「藤の若ツル」の産地を示す固有の地名として、縄文時代には、既に実存したと比定できる。 藤ツルから採取できる蔓や樹皮は、縄文・弥生越前人にとっては不可欠の塩水に強く、農工具、篭造りや、また、樹皮からとれる藤糸は、野良着や漁網・漁具造りの繊維素材として重宝されたことは言うまでもない。また、秋にはそら豆の如きにたわわに実る藤の実も、椎の実等ドングリ類や葛の根等と同様に、貴重な食糧源であったと比定できる。
5. 「藤原」の姓は、中臣鎌足が大化の改新(645年)の功により、第38代天智天皇(626-672)から賜ったことに始まると言われている。 一方、中臣鎌足のルーツは、『藤氏家伝』によると、大和国高市郡藤原(奈良県橿原市)が出生の地であるところから、藤原の姓は地名由来で、その地名たる藤原京(694-719)は、藤の野原であった特徴を表した地形由来との解釈もある。
しかしながら、藤原京の名称は近代に作られた学術用語であり、「日本書記」では、京が「新益京(あらましきょう)」、宮が「藤原京」と呼び分けられていることから、藤原京の「藤原」は、地名から来たものではなく「藤原氏」から来たものとの説もある。又、“中臣”は姓(かばね)であり、原義は「神と人との中を取り持つ臣」の意味で、この神祇職を担った氏族の職名に由来するとの定説もある。
6. 藤原氏一族は、奈良時代から平安時代にかけ朝廷内で権勢を極めると共に、この期間中、越前の国司職もほぼ独占し、越前国内の多くの荘園が藤原氏の支配下であった程に、越前との繋がりは奥深い。 因みに、福井市、坂井市とあわら市の平野部には、藤原氏一族が氏神と祀る「春日神社」が70余社も存在し、藤原氏族の権勢が及んでいたことを示している。
その背景には、(藤原)中臣氏の祖先は、男大迹王のヤマト王権継承の軍行に臣従し貢献した越前は「藤島」⇒後に「藤原」出身であり、「卓越した知識と外交力を具備した軍師・神祇官系豪族」であったに違いない。 そして、その子孫や、その後、朝廷に任官した越前人達は、自身のルーツは、男大迹王、継体天皇と同郷の「越前は藤原の中臣、或いは、藤原の某」と、誇らしげに語り伝えたことは想像するに難くない。
当然の事乍ら、中大兄皇子(後に天智天皇)も、越前は藤原が出自の祖先、男大迹王から約150余年の直系5代目であったことは元より、その臣下の鎌足の出自も越前は藤原の中臣一族であった可能性は非常に高い。
そんな中臣家の「ファミリー・ヒストリー」を汲んで、天智天皇は、自身の祖先継体天皇輩出の地でもある「越前は藤島」発祥の「藤原」の氏名を権威付ける意図を持って、天皇の名のもとに、大化改新に貢献した褒美として公的氏名「藤原」を、忠臣 鎌足に授けたものと、サバ読みロマンを物語ることも出来るのである。 即ち、「藤原氏族のルーツは、越前の藤島」である。
このサバ読み談義の筆を置きながら、ふと思った。 越前を象徴する花は、「越前岬の水仙」も然る事乍ら、6千年余の悠久の歴史を秘めた「藤島の藤の花」ではなかろうか?
この秘めた歴史ロマンを「見える化」して、「古代歴史に裏打ちされ、世に誇り語れる観光コンテンツ」に仕立て上げるために、故郷のまほろば「藤島」の適地に、これまた「見える化」した松岡・丸岡の古墳群を背景にした「足利の大藤だな」に負けず劣らすの日本一の藤だな公園を造営してはどうか、また、春日神社群の境内にも一様に藤棚を設置して、その季節には「藤島の街々」を挙げての「越前 藤の花まつり」を開催し、ジャスミンの芳香漂う藤の花を愛でながら、男大迹王と奈良・平安の藤原氏一族を偲び、古を想うのも壮大で夢がある筈と。。! ==完==
泉州 閑爺
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