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藤島の地名由来(第16話)

更新日:2023年4月9日


今から約2000年前(紀元年前後の)頃は、現在の福井平野は古九頭竜湖と呼ばれる汽水湖沼地帯であったことは、諸々の専門的論文や遺跡等からも比定できる。 

越前中央山地から流れ出る古九頭竜川は、現在の松岡町を過ぎたあたりから三角州を形成し氾濫湖沼地帯となった古九頭竜湖に流れ出ていた。その三角州地帯には島状微高地の中州が現在の「藤島町」から「高木町」辺り迄形成され、雑木林やその高木に纏わり成長する藤の木等も繁茂した。 


1.  越前弥生人は、古九頭竜湖の湾岸周辺台地から河川湖沼に浮き出た中州の島に移り住み漁労民から半農半漁の農耕民に進化した。その季節には、薄紫色の藤の花が咲き乱れジャスミンの甘い香りを放ち、田植えの時期の到来を華やかに告げた。

梅雨明け頃の中州の島は、糸・紐・縄に古代着や漁網作りに不可欠な繊維原料であった藤の若ツタの収穫・刈場となり賑わった。もしかすると、椎の実と同様に、藤の実も大切な糧であったのかもしれない。 越前弥生人とその支配層は、居住と開墾に適した平坦微高地で、且つ、利水に恵まれた藤ツタ刈と米作りが出来る豊潤な中州の島を特定・縄張りして「フジのシマ⇒藤の島」と名付けて呼んだ。 後に短略化され「藤島」と呼ぶようになった。

「藤島」は、その後、九頭竜川水系より流出する浸食土砂の堆積により中洲島の形状は徐々に消滅し、加越・越前中央山地西麓から張り出した扇状地形となった。 越前弥生人達の弛まぬ治水工事や開墾作業により、周辺一帯は広大な水田地帯に、又、自然自生の藤ツルの苅場も、地形の変化と共に、藤ヅルを栽培を目的とした人手が入った藤の野原⇒『藤原』に徐々に変貌しその地域は、「藤原」とも呼ばれるようになった。 しかしながら「藤島」や「高木」の古地名は、その特徴と悠久の歴史を秘めたまま、幸いにも今に残った。


2.  今から約2万年前の最終氷期時代は、古代日本海は現在の海水準より▲120~▲140mも低く、福井平野は、古九頭竜川、古足羽川に古日野川が、米国のグランドキャニオンの如きに、深い峡谷や河岸段丘に自然堤防を形成・蛇行し、古代日本海に流れ込んでいたと言われる。

約1万8千年前から海水準が上昇する縄文海進がスタートし、ピーク時の約6千年前には、現在の

鯖波・鯖江や勝山辺りまで、一面海水に覆われた古九頭竜湾(海湾)が形成された。

    縄文海退時期に入ると、山間部から流出する大量の浸食土砂の堆積等が主因で、古九頭竜湾は浅い水深の海湾に変化すると共に、加賀越前山地や越前中央山地西麓には扇状地が、更に、日本海側には三里浜旧砂丘が形成され、海水の流入が制限されると共に、河川水が徐々に湾内に滞留する様になった。 その結果、縄文海進ピーク時から、ほぼ4000年経過した紀元年前後には、古九頭竜湾(海湾)は、汽水湖沼状の古九頭竜湖に変化したのではなかろうか? 

    勝山地区から古九頭竜湖に流れ出る古九頭竜川は、山間部出口の現在の松岡町辺りから三角州とその中央に島状の微高地中州の島⇒「藤島」が、現在の島橋町辺りから西側船橋町・高木町辺りまで形成され、前1項で述べた通り、越前弥生人とその支配層は、稲作農耕開墾の為、島内の水利に恵まれた各所に村落を形成し定住するようになったと比定できる。


3.  縄文人は、身近で採取できる自生植物の茎やツル等から繊維を取り出し、それを編んだり織ったりすることによって衣服など生活必需品を作ったと言われる。 

野山に自生する藤も、他の繊維素材植物と同様に、これを編んで布や篭を作ることが行われ、又、藤の若ツルの皮を剥いで糸とし、それを織りあげる藤織と称する紡織技術も古来から存在した。 その製品である藤布(ふじふ)は、人類不可欠の衣料として、ほぼ全国の山村で織られた自然布(古代布)で、日本最古の織物の一つとされる。 

藤ツルの繊維は強く、塩や水にも耐えたことから、生活用紐・縄に、漁網・漁具材や仕事着として、又、紀伊半島では筏流しの編筏にも使用される等、需要も高く、明治・大正期に入ってからも、山間地域では藤織りが行われていたと言われる。

縄文海進で鯖江・鯖波や勝山辺りまで海湾入江で覆われ、漁民化した越前縄文人にとっては、野山で自生する藤のツルは、衣服や漁網・漁具作りの糸・紐・縄等の素材として、食料に次ぐ重要な生活資源でもあった筈。 更に、稲作農耕が発達し人口も増加した弥生時代には、繊維素材の需要も増加し、藤の花木の繁茂する「藤の島」は、地域住民とその支配層にとっては、安全な居住地として、又、生活の糧となる水利、林野、田畑、漁場に茅場等々を貴重な資源として、その権益を確保し縄張りをするのに最適の地形「環濠の如きに水面に囲まれた島」でもあった筈だ。そして、季節には美しく咲き誇る藤の花を愛でる我が民族独特の習慣・文化も芽生え、今に残した。


4.  坂井市春江町に県指定天然記念物の「藤鷲塚のフジ棚」【樹齢800年、元々はケヤキの高木に纏わり着いた樹高18メートル、幹周り70センチ】がある。

『春江の民話』によると、かつて福井平野がまだ湖だった継体天皇の頃、この湖にはいくつかの島が点在し、藤鷲塚の伝承もその一つであったと。藤のつるが高木に絡まっているその小高い丘に人が住み始めたのが始まりという伝説が遺されている。

藤鷲塚の近隣集落の小字に「藤ノ木」もあるとの事で、「藤島」と同様に、古九頭竜湖に点在した微高地の「島々」では、藤の木が繁茂していたことを伝える証左でもある。

但し、坂井市の公式ブログ「さかい風土記」に、坂井平野の古代は、繊維素材として藤ツルの栽培、採取が盛んであった可能性について言及していないのには、勿体なさを感じる次第である。

5.  福井県の織物生産について、その起源はまことに古く、一説によると、西暦2、3世紀ごろ、大

陸から集団移民してきた人々が、越前、若狭地方にも移り住むようになり、絹織物が織られるようになったといわれている<fukui-seni.or.jp>。 また、越前和紙作りは、今から約1500年前、「越前五箇」を流れる岡本川の上流に女神「川上御前」が現われ、村人に紙漉きの技を伝えたのが始まりといわれている<echizen-tourism.jp>。 

    しかしながら、これ等伝承は、人類不可欠の原始衣服の存在や縄文海進と言う知識を持たない古代人によって作られた逸話に基づくものと思われる。 因みに、我が国の絹の歴史は、福岡県立岩遺跡から絹の織物素材が出土したことから紀元前2~1世紀頃に遡ると言われている。また、縄文海進で海に覆われ漁労で栄えた縄文越前地区では、海水に強い藤ツル等を原料に織物である原始布や漁網糸等の物作り生業も盛んに営まれ、縄文早期時代以来の越前の主要な原始産業となっていたとの仮説も成立つ。 縄文時代からの越前特有の藤布・藤網作り産業が、発祥起源となり越前織物や、同じ樹皮を原料とする和紙作り産業に派生、発展したとサバ読みロマンを物語ることが出来のである。 以上         

                    <第17話に続く>  泉州 閑爺

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