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執筆者の写真泉州 閑爺

金刀比羅神社は縄文塚遺跡(第8話) 

更新日:2023年4月13日


縄文時代の信仰は「アニミズム・自然崇拝信仰」と言われる。 海や山、川、巨岩、草木、動物、気象など自然界の森羅万象に、霊性・神格を認め崇める原始宗教で、縄文人の集団生活の中から発祥した日本独特な多神教で「縄文神道」と呼ばれている。 越前の地に今に残る金刀比羅神社は縄文神道を創祀起源とする貝塚遺跡に代わる縄文塚遺跡と比定出来る。


1. 鯖波地区で唯一発見された上平吹縄文集落遺跡では、祭祀遺跡も発見された。縄文海進時代には、その祭祀遺跡の直下には鯖波峡湾が望め、今も隣接して鎮座する上平吹金刀比羅神社にも繋がる海神を主神格として祀り崇める縄文神道の集団祭祀場であったと比定できる。(下図参照)


2. 上平吹の金刀比羅神社の存在を知ったことが切っ掛けとなり、鯖波・鯖江地区には、古代の湾岸入江を取囲むが如きに、海神系金刀比羅神社が、13社も存在していたことは、第6話でも説明の通りである。

「縄文遺跡の殆どは、湾岸水辺の洪積台地に存在した。」との定説を裏付ける、これ等海神系の金刀比羅神社の存在は、縄文貝塚と同等以上に、越前縄文人の営みである縄文神道を、「お社」群の形で、今に継承する塚遺跡であり、越前地区特有の貴重な古代文化遺産と言えるのではないだろうか?

一方、江戸期以降に「讃岐の金刀比羅宮の分霊を、地元住人が勧請し奉戴し創祀した。」との由緒が残る神社もあることから、これ等13社のすべてが縄文神道起源とは言えない。

この背景には、江戸時代に入り四国の金刀比羅さん詣でが大流行し、同じ海神系神道の古寺社が、盛隆を誇った讃岐金刀比羅宮のご利益にあやかろうと、“日本神道の伝統的特技”である「分霊を勧請・奉戴し、合祀・再創祀」し、「金刀比羅神社」に改名する流行があったと思われる。 

但し、ご利益だけを目指すなら、当時では主流派の稲荷・八幡・神明系の寺社に衣替えしたり、分霊を勧請した新寺社等は、縄文海退後に地表に現れ形成された沖積平野部の“平地”に創建された寺社も多いと思われる。 


3. 一般的に、縄文時代の海湾入江の湾岸高台は、神聖な宗教施設に威容を示す狼煙台や城塞砦を設置するには最適地であり、古代の地元海民や支配層にとっては、眺望良く且つ「山だて」の目標となる地域の象徴的な場所であったに違いない。 従い、縄文神道を発祥源とする神社は、「金刀比羅神社」を筆頭に、縄文海進時代には湾岸高台であった場所に、現在も鎮座していると言える。

縄文海進時から約6000年もの永い期間に、信仰様式が、「縄文神道」から、お社を伴いまた神格に人格神も加わった「神社神道」へ、仏教伝来の影響を受け「神仏習合」の寺社に、明治に入り、廃仏希釈から神仏分離・共存へと変遷した。これ等高台の神域には、栄枯盛衰しながらも何らかの宗教施設が絶えることなく地元民や支配層により祀られ信仰され続けて来たと考えるのが、人類歴史学的にも自然の成り行きと思われる。 


金刀比羅神社を筆頭に多くの海神系の古社が、現在も縄文海進時代の湾岸高台跡に鎮座しているということは、海に因む古地名が山間地に忽然と残されている様と同様に、その地域の住民や氏子が、縄文神道が発祥源の信仰様式を「無意識の内に習慣」として引き継ぎ、地域の鎮守の守護人としてお祀りし続けて来た証左とも言える。


4. 因みに、金刀比羅神社の総本宮、讃岐の金刀比羅宮は、大物主命が紀元80年頃に、琴平山(象頭山)に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、仏教伝来以降の本地垂迹説により仏教の水の神「クンピーラ:宮比羅」を習合し金毘羅大権現と称したとの伝承がのこる。 

縄文海進ピーク時には、琴平山にも海湾入江が迫り、琴平山山麓高台には、漁労を生業とする縄文集落と、海を神格とする縄文(海神)信仰が発祥し、祭祀場も存在していた筈だ。 

その後約3000年以上も経過した弥生時代に入り、大物主命を海神と神格化した神社神道の「琴平神社」に進化し、奈良時代に入り神仏混合寺社の金刀比羅宮へ、更には、江戸期に入り「讃岐の金比羅さん参りで大繁盛」と、変遷しながらも「縄文起源の神道」が絶えることなく、今日まで継承された証と言える。


5. 鯖波・鯖江峡湾入江のイメージ図では表示圏外だが、越前町小曽原の金刀比羅山宮も、鯖江・鯖波の地名由来を語るに重要な存在である。 

「海進シミュレーション」で見てみると、古天王川が河岸段丘を形成していた流域に同山宮が鎮座する幡ヶ山山麓辺りまで、海進が達していた様に表示される。

縄文海進時代には、小曽原の峡湾入江を見渡す幡ヶ山の山麓高台にも、漁民集落と海神系の集団祭祀場が発祥したと推定できる。 多分、金刀比羅山宮境内・近隣には、上平吹の金刀比羅神社と同様に、多くの縄文遺跡・遺物が眠っていると思われる。


金刀比羅山宮の由緒書では、起源は不明としながらも、草創は14世紀頃とある。では、14世紀以前の同社の社歴はどうであったのだろうか? 

当然の事乍ら、縄文海進時代には海辺を生業とする海民集団が住み始め、幡ヶ山の高台にも縄文神道の集団祭祀場が祀られた筈。 

この古代祭祀場は、地域の漁民集落の住民・氏子や支配者等に支えられながら、時代の経過と共に信仰体系が変化しながらも絶えることなく祭祀儀礼が続けられ、金刀比羅山宮の前身寺社へ引き継がれ、江戸期に入り、金刀比羅山宮の由緒書の通り、今日に至るものと思われる。


6. 一方、越前市岩内山の杉崎神社や越前町乙坂山の大洗磯崎神社は、仏教の「宮比羅」系社名を名乗らず鎮座地の海に因む古地名を称し、且つ、海神系の大物主命を主神格として古来から祀り続けているとしたら、縄文起源の悠久の古社であると比定できる。 また、鯖江市川島町の加多志波神社(三里山)も、その社伝や地元伝承から、縄文神道起源の悠久の古社と言える。 

更に、越前市国兼の縄文古地名「大塩保」を冠する大塩八幡宮八幡総本宮宇佐神宮を祖神とすること及び、近隣に複数の金刀比羅神社が存在する立地環境から縄文神道が起源であると比定も出来る。また、深江の船津神社に現在では境内社として鎮座する「金毘羅神社」の前身も、大彦命が北陸平定の為に「王山」に陣を置いたとする時代には、当時のサバエ王権の存在とも関連、地域の神社と集落を統括支配した海神系神社の総本社であったとの仮説も成り立つ。


7. 我々日本人が食事の際、日常的に使う「いただきます。」と言う合掌して発する言葉は、「今日を生かす糧を、農作物(自然)や生き物などから得ること」等、自然物に対する畏敬と感謝を表す日本独特の言葉と仕草や、また正月の門松やしめ縄飾り付け等の風習も、縄文神道を起源とするとの通説もある。

その様な6000余年をも優に超える悠久の歴史を持つ独特な生活習慣に支えられ、13余社もの金刀比羅神社が、神社神道の様式を保ちながら、鯖波・鯖江の縄文湾岸高台に、潜むが如きに鎮座し続ける様は、まさに「縄文神道の貝塚<塚遺跡>」である。 

我が故郷の地域自治体や住民の皆様には、縄文神道に繋がる金刀比羅神社や金毘羅神社は、貴重な文化遺産であるとの認識のもと、是非、大切に維持・保存頂ければと願うところでもある。     以上           

                           <第9話に続く>    泉州 閑爺


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