泉州 閑爺

2023年3月12日

鯖波と鯖江は、越前国 黎明の地(第13話)

最終更新: 2023年4月9日

縄文海進と海退の気候変動に伴い、鯖波・鯖江の古代越前の産業は変遷進化した。 越前縄文人は、地場産の珪石石器作りに始まり、縄文海進と共に集団漁労や集団製塩業を興し、海民として船による対外交流交易をも活発化させた。海退期にはいると、谷底平野化した日野川水系南側高地部より徐々に稲作農耕を興し、開墾に要した農具も石刃から青銅・鉄器刃に進化し、鉄器作り産業が興った。 天の恵み縄文海進と海退は、鯖波・鯖江を越前国黎明の地へと発展させた。

1. 鯖波地区には、鯖波峡谷の河岸段丘最上部の小扇状地、標高約72mに、当地区唯一の「上平吹縄文集落遺跡」が存在する。 出土した縄文土器より、縄文中期後葉期の縄文集落で、多くの珪石くず・石片、石錘が出土したことから、南条山地で採れる珪石を原料とする小型剥片石器(石鏃、石錘、石匙等)の産地であったとも比定されている。

その時代は、縄文海進最盛期に相当し、上平吹集落の直下に鯖波峡湾が存在した。祭祀遺跡も発見されているところから、上平吹集落の主な生業は、集落集団による石器生産と漁業であり、自然崇拝信仰の縄文神道も盛んであったと比定出来る。

2. 鯖波の北寄りの古地名「白崎」の隣地の地名「王子保」は、11世紀頃迄は「オオシオ=大塩保や大塩村」と呼ばれた史実が残る。地名に「塩」が付くからには、その地が縄文海進時には海辺であった古気候学的根拠も加え、素直に集団製塩業が営まれた特徴を示す地名由来の「縄文古地名」と比定も出来る。また、塩保に「大」が付くからには、塩造りを生業とする村落が多く存在していたことを暗示している。  製塩土器等が発見されない限り、製塩業が営まれていたとは言えないとの指摘もある。 しかし、製塩土器には、時代、地域、製塩法、形や規模で、その考証に大きな違いがあり、その様な未知の部分が多い遺物の出土に固執することには固定観念過ぎるとの説もある。

  漁労で賑わったであろう「鯖波」「白崎」や「鯖江」等では、人類不可欠の食塩に加え、鯖等魚類を塩漬け加工した交易用にも大量の塩を必要とした筈だ。 今に残る古地名と当時の地域環境から、集団製塩業も盛んに営まれていたと解釈するのが人類・社会歴史学的に自然ではないだろうか? 

因みに、奥能登の海岸沿いには、現在でも浜揚げ式の小規模な塩田が点在する。海岸縁に一枚の小ぶりの棚田を作った如きの塩田風景は、古代越前大塩保の塩田風景を想わせる。

3. 鯖波は、10世紀頃に済羅(さわあみ)と呼ばれ→「鯖並」→江戸期に「鯖波」に比定されたとの伝承が残るが、何となく、中・近世時代の知識人の万葉仮名使い的表現に見えてしまう。 やはり、鯖波峡湾奥にサバの大群が押し寄せる様を、越前縄文人は、「サバ・ナミ」と呼び、そんなサバの好漁場を示す地名として共有、伝承されたとサバ読み出来る。 

漢字の伝来と共に、万葉仮名的表示である「済羅」→「鯖並」から、正しい表意文字の漢字「鯖波」が当てられたと解釈するのが自然と思われる。 

一方、「金沢鉄道管理局の旧鯖波駅の“駅名の由来”」によれば、『鯖波は古くは済羅(さわなみ)と言われた。 「済(さわ)」は多い、「羅(なみ)」は網で、漁村集落の家々には多くの網が干してあった為、この地名が生まれたと思われる』との説も残る。この伝承は、まさに縄文海進時代には漁網で大量漁獲する鯖の豊漁地であったことを示唆する伝承ではなかろうか? 若しくは、鯖の豊漁地であったことから、漁労を経験した専門性を要する漁網の生産集落に変化していた時代の光景であったのかも知れない。

  鯖波は、古から北陸道と菅谷峠越えの越前海岸河野を結ぶ街道が交差し、日野川を利用する渡船宿駅であった。 昔から、人馬継ぎ立てる要衝宿駅として栄え、加賀藩・福井藩もしばしば利用した豪壮な石倉家本陣も存在した。 江戸期から大正期にかけ、関所や役場も設置され、「旧村の中心地として発展したのも街道町、鯖波宿があったればこそ」と、地誌「伝承物語さばなみ(1991)」でも、鯖波の古を偲んでいる。

余談ではあるが、旧「鯖波駅」を知る筆者として、如何なる背景があったのか、悠久の謎と歴史を秘めた古地名、「鯖波」を冠した駅名が1973年に「南条駅」に改称されてしまった。 鯖波地区を象徴し継承すべき貴重な歴史資産「古代から伝わる固有の駅名:鯖波駅」を消し去った様で、今更ながら、寂しさと勿体なさを感じる次第である。

4. 鯖波地区に残る「平吹」と「鋳物師」の古地名は、「平吹」は「ふいご」を意味するところか「らたたら製鉄」が行われ、「鋳物師」では鋳物師の集団が住んでいたことから付けられたとの伝承が残る<suido-ishizue.jp>。 しかしながら、実証考古学的には、「平吹」と「鋳物師」の存在を示す史料や遺跡・遺物は、まだ発見されていない模様である。 

  一方、近隣の加賀市豊町A遺跡(縄文晩期)で砂鉄の製錬滓が発見され<田窪勉・SSブログ(2022)>、また福井市「林・藤島集落遺跡(弥生後期:2~3世紀)」では、鉄器を使った翡翠工場が発掘されている。福井市「藤島」地区より約1000年以上早く陸地化した鯖波谷底平野部では、弥生前期~中期頃には、水路・水田開墾工事や農耕作業用の土木工具用に、銅器や鉄器の生産が始まった可能性は高い。 そんな銅器や鉄器の専門的物作り集落を、その特徴を端的に示した固有の古地名「鋳物師」や「平吹」と呼び、今に残ったと比定できる。 

5. 越前市の伝統産業、越前打ち刃物は、史料から14世紀前半、京都の刀師が刀作りに適した土地と越前の地に移り住んだのが始まりとの説<takefu-knifevillage.jp>がある。 しかし、逆に、砂鉄の地場採取や製鉄原料の交易調達を含め、弥生時代辺りには、既に技術レベルの高い鉄器造り環境が越前に存在していて、「弥生時代発祥の鉄器作り文化を引き継ぐ越前打ち刃物」と銘打ってもおかしくはない。 

  同じ伝統産業である堺打ち刃物は、堺市周辺に多く残る古墳を造成する土木工事の為に、鉄刃先の鋤や鍬などの工具がたくさん製造されたのが始まりとの伝承がある。因みに、「福井県史」によれば、古代の越前では砂鉄の産地は主に坂井郡の海岸であり、中世には南条郡の日野山地域に金・銀などの金属が採掘されていたとのことから、鯖波の峡湾時代の海浜や谷底平野時代の河川の砂地からも砂鉄が採取できた可能性は否定できない。 

   また、農水省が、2021年に島根県奥出雲地区(標高約200m)の「たたら製鉄由来の棚田農業」を「世界農業遺産」に申請した事例とその内容には、紀元前900年頃には陸地化した「鋳物師」・「平吹」地区(現標高約50m)の水路・水田開墾土木工事に於いて、山砂鉄を採取できていた可能性を示す数々の証左が暗示されている。 

  人類文明の進化に伴い、木製の矢・槍・鍬・鋤等の刃先が、石器から青銅器・鉄器へ進化したことは定説である。  鯖波地区は、縄文海進と海退という大自然の恩恵を受けながら、海進時代には、丸木舟から準構造船造りの木工具が石斧から鉄の刃先に進化していた可能性がある。 更に、鯖波地区は、海退に伴い、紀元前2000年代から徐々に高地部から谷底平野化すると共に稲作農耕も広がり、水路・水田開拓に加え、3~4世紀にはいると、古墳造営工事も盛んとなった筈。 これ等土木工事の勃興に伴い、鍬・鋤の刃先に青銅や鉄製が使用され始めたと推測するのも自然ではなかろうか。

6. 鉄器文化は、ヒッタイト文明(BC1600~BC1200)で発祥したと言われる。中国では、春秋時代(BC700年代)には、既に鍛鉄と鋳鉄の両者が出現していたと言われている<kotobank.jp>。

縄文海進・海退時代(BC6000~AD400)の鯖波~鯖江地域は、大陸や日本海沿岸文明との盛んな交流・交易拠点となっていたとの考察は縷々説明の通りである。 

その様な地の利の恩恵を受け、渡来系青銅・鉄器作り技術の導入も促進され、「平吹」「鋳物師」が古地名として残る程に、恐らく弥生時代には、当時最先端の鉄器の生産・交易拠点に変貌していたと類推で即ち、古代の鯖波・鯖江地区は、越前国黎明の地であり、サバエ王権族や周辺豪族は、鉄器を活用し、農業生産力と軍事力を強化し、富国強兵な国造りに繋がったとのサバ読み仮説に繋がるのである。                       以上

<第14話に続く>             泉州 閑爺

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