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2022年7月10日

南朝方の心の支えとなった藤原藤房 福井市大丹生町

建武の新政とは鎌倉幕府の滅亡南北朝時代という新しい争いの火種を生み鎌倉幕府滅亡後主導権争いが始まったと言えます。そんな南北朝時代にこの越前では南朝と北朝の激戦が繰り広げられたことは新田義貞が福井の地で亡くなったことからもその熾烈さは十分に伝わります。

そんな中、藤原藤房という人物の話が福井市大丹生町に伝わり南朝方の武将とのかかわりが指摘されています。この藤原藤房とはどんな人物なんでしょう?

  1. 倒幕派・藤原藤房とは??

  2. 福井市大丹生地区に伝わる脇屋義助と藤原藤房

  3. 謎多き藤原藤房の越前での立ち位置

1、倒幕派・藤原藤房とは??

 藤原藤房万里小路藤房(までのこうじ ふじふさ)と呼ばれ後醍醐天皇に仕えた公卿として天皇を支えた人物です。鎌倉幕府滅亡後の建武の新政では恩賞を与える主席の一人となりました。

藤原藤房(万里小路藤房) wikipediaから

 しかし、建武の新政では天皇や朝廷への権限を集中させ武士の時代から朝廷の時代へ戻そうとしたため武士の反感を買う状況になります。主に2つの出来事見てみましょう!

 ひとつは、土地の管理を朝廷で行ったこと。一旦、土地の所有や官位を無効にしたので各地の武士は自分の領地を認めてもらおうと京へ殺到したため最終的に国司に任せるという元のさやに戻ってしまったこと。何ともいい加減な状態に武士たちはいら立ちます。

 もうひとつが武士への恩賞の少なさでしょう!赤松円心という人物がいて後醍醐天皇を古くから支えた武士でしたが鎌倉幕府滅亡後、播磨守護職に就きましたが結局は没収され新政権では立場なく失脚。楠木正成足利尊氏も戦功に比べ恩賞は少なく、公家には恩賞は篤かった。その為、武士は足利尊氏を頼りました。それに応え足利尊氏は独自に恩賞や領土を与え始めます。

 このような状態の中、恩賞方の藤原藤房武士と朝廷の間に挟まれた状態となります。藤房は後醍醐天皇に恩賞の与え方に対し進言するなどしましたが聞き入れられることはなく、さらには上級政府高官が恩賞に対して口出しをしてくるなど藤原藤房の環境は厳しいものになっていきます。

 そんな中、藤原藤房官邸務めに嫌気をさし退職し京岩倉の里に隠棲しました。

2,福井市大丹生地区に伝わる脇屋義助と藤原藤房

 その後の藤原藤房の消息はあまりわかっていません。ところが、福井市大丹生町の八幡神社の社伝には『元弘の変(1331年)の後、当地に隠棲していた南朝方の藤原藤房を黒丸合戦の後の脇屋義助が訪ねてきた際にこの神社に戦勝祝いとして神刀を奉納。』とあります。この社伝は信ぴょう性が高いと思います。太平記によれば脇屋義助は黒丸城の北朝方・斯波高経を討つため、国府(現在の越前市)から丹生北部を通り河合荘に至ったとあります。この時、南朝方は大将の新田義貞が討ち取られた後で怒りと復讐に燃え北朝方・斯波高経を加賀まで退却させます。この後、同じ道を通って国府に戻れば大丹生地区を通ることになります。その時に八幡神社で戦勝祝いをしたとなれば矛盾も感じません。


福井市大丹生町にある八幡神社の屋根にある社紋には漢数字の八が雀のようなものになっています。万里小路家家紋は竹に雀意外な雀繋がり。ここで脇屋義助藤原藤房新田義貞亡き後の今後の南朝方の行方を語ったと考えます。


 また、近くの高須山に城を造ろうとした南朝方・畑時能が地形を調べていると一人の僧が石に座禅し名も言わず「ここもまた、浮き世の人の問い来れば、空行く雲に宿を求めム」と一首残して立ち去ったといわれます。

 更に、この高須山の近くにある「チハラ」という高原があり、藤原藤房この地に草庵を建てて生活をしていて村娘との間に一子を設けた。その子は清慶寺の初代住職になり福井市高須町で18代目まで続いた。と伝わります。

3,謎多き藤原藤房の越前での立ち位置

藤原藤房の子孫が代々住職を務めるといわれる清慶寺。2022年7月訪問時。廃寺になったと聞いていたのですが訪問時はとてもしっかりと手入れされていて境内にご住職のご家族の方の家かな?があり管理されている感じがしました。山村集落で過疎化が進む中大変だとは思いますがこの地の歴史やお寺の思いを受け継いでほしいなと思います。


 注目したいのが脇屋義助藤原藤房を訪ねたという点、また、越前の南朝方最後の砦・高須山城の近くに藤原藤房と関係するお寺があること。これらをまとめると藤原藤房越前南朝方を裏で支えた人物だったのではないかと考えます藤原藤房の人望は厚く、建武の新政では恩賞のバランスの悪さを後醍醐天皇に進言するなど人望だけでなくそのしっかりとした考え、また公卿の地位を捨て越前で隠棲するなどその行動は破天荒でもあります。北陸に地盤を築こうとした新田義貞はもしかすると藤原藤房を頼ってこの越前に来たのかもしれません。

 その後の藤原藤房はこの高須山城で討死し丸岡町豊原の華蔵寺に入った畑時能の息子玉泉坊道教と称し僧となり菩提を弔ったといわれていますが、藤原藤房の話は各地に残りは生きていたと考えられます。その理由は秋田県には藤原藤房の墓と伝わる石塔があること越中(富山県)にも藤原藤房の話が残ることから藤原藤房は北上したと考えます。

 藤原藤房こと万里小路藤房。とても謎めいていますがとても興味深い人物です。今後も福井市大丹生地区付近の情報と富山での情報などがあれば深堀していきたいです。

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