御祭神はアマテラスとワタツミ。白瀧神社の御祭神•ワタツミを明治に入り合祀。もともとは浄法寺村を開拓した井関園次が荒地開田の守護神として祀ったのが始まり。井関園次と言う方は地元では有名のようで石碑や社伝などその名前は多く残っていますが情報は少ないです。鳥居には不動明王が刻まれています。かなり広い境内で整備されていてトイレまであります。
御祭神はソコツツノオ。最近は神社境内の整備がよく行われて木がかなり伐採されています。この住吉神社もかなり木が切られてました。浄法寺の山中には古い寺跡がある。天明の大飢饉には村の7割が餓死したとされる厳しい状況だっ たじょう浄法寺村。数年後、村の井関園次が水路を開き水田を開拓したと言われる。その後、長雨が続いたが福井市など下流では水害が起きなかったといわれる。
御祭神はウワツツノオ。大洪水でだいめじじ谷にあった社殿が流され御神体が下浄法寺下割に漂着したので社殿を築き奉祀した。明治42年、春日神社、神明神社を境内社とする。朝倉家家臣•鰐淵将監吉広の城があったとされる。加賀一向一揆征伐に参加。天正元年、織田信長との戦いに敗れ引壇で討ち死。
福井の川上と呼ばれる神社は基本、女神の場合が多いがここは男神。見渡す限り田園風景が広がる九頭龍川沿い。山々に囲まれて風景はいい。隣村の竹原村への出作を行なっていたり勝山街道が通っているので大野郡の年貢米を松岡まで輸送したりして生計を建てていた。本殿は志比大工の作品かな?本殿は古く作り込まれた感じ。
御祭神は神武天皇、アメノコヤネ。鳥居には薬師の文字が刻まれている。文政3年(1820年)大旱魃があった際に3つの溜池を造りその守護としてアメノコヤネを祀り溜池神社と称する。明治に入り吉波神社に合祀。現在も溜池あり。山があり九頭龍川に接している事から年貢は米は少なく燃料となる木材や川魚を売って納めていた。川での漁を認められていた地域。
文化2年(1805年)に永平寺門前の志比大工•大久保平吉棟梁が本殿を造営。昭和54年に永平寺志比の大久保利一棟梁が本殿を改築。この大久保氏。今もその技術は受け継がれているのかな?わかりませんがあの、越前市大滝町の大滝神社の造営に関わった方に大久保勘左衛門棟梁とあり永平寺大工とあるのでご家族か関係者の方だと思います。
御祭神はイザナギ。九頭龍川沿いの昔は氾濫多発地域。大野郡保田村(現•勝山市鹿谷町保田)に隠棲していた丹波国高見城主の赤井忠清が村人を率いてこの地に入り堤防を造り開田した事に始まる。大野郡の人々の村との思いから大野島となる。赤井家をちょっと調べていたら出てきたのが、波多野氏!丹波波多野氏と共に明智光秀と戦い破れた人。この事から越前波多野氏と丹波波多野氏は密に繋がっていた事がわかる。
もとは飛び地で山中の谷に山王元村があり大山祇を祀り山王社をあった。地名は山王信仰から生まれたと考える。越前朝倉 家の時に現在地に遷座したと言われる。勝山街道が通り大野藩主が越前松平家の一族だった頃は大野と福井の中継地点として特に栄えた。
古くは上野とも称した。髪の毛を剃ってしまう白狐の伝説が残る。明治44年に浄法寺村の浄法寺神社(現在の上浄法寺•住吉神社)に合祀したが、書類上の合併で祭祀は続けられた。余談ですが、永平寺町松岡地区にはお殿様の行列の話が多いです。勝山藩の話が多くこの松岡地区を多く通ったと推測できます。髪を剃る話も狐の話も深掘りすると永平寺や稲荷信仰と繋がるのでは?気になるお話です。
芦見谷の宮越市右エ門の弟分が山中に分家したのが始まり。その後、山中から川沿いへと移り住み市右エ門島と呼ばれる。元は上志比村。山々に囲まれた農村で日本ぽい風景です。鳥居は笏谷石かな少し青っぽい。近くには弁財天白龍王大権現があり同じ宗像三女神のイチキシマヒメを祀っている。その間の石上地区ではイワナガヒメを祀っていていろんな女神に会える地域です。
御祭神はタケミカヅチ。元は荒川村と市村とは分かれていた。荒川村は本願寺派は興行寺の門前村として栄えたが一向一揆が越前国から追い出された時に加賀に追われて荒川村は衰退。朝倉氏との戦いと推測。市村は大野方面へ向かう交通の要所として市場的な立ち位置だったと伝わる。神社の前には本願寺派善教寺があり神仏習合の色が濃い。元は天台宗と伝わる。
御祭神はイザナギ。式内社の椎前神社鎮座の地とも言われていて北陸最大級の前方後円墳の手繰ケ城山古墳もある。延宝8年(1680年)白山神社、寛政年間に八幡宮を合祀。神社の前を電車が通る。八幡水と書かれた不動明王があります。松岡地区は水の神様として不動明王を祀る事が多く湧水など水に関する地に不動明王を祀っています。鋳物師なと職人の多い地域でもあり芝原鋳物師と呼ばれ世に広がったと伝わります。
江戸期•松岡藩城下町の松岡八町のひとつ椚町。勝山街道の宿駅にもなる。七面山八景(現•明神山)と呼ばれ越前有数の景勝地とされた。この神社は明神社のふもとに鎮座しています。文明3年(1471年)越前朝倉家によりアマテラスを毘沙門堂に祀ったことから始まる。現在の松岡駅はもともと神明社だったが町発展の為、境内地を譲渡して明神社に合祀。
御祭神はスクナヒコナ。薬師神社の石柱の裏に少名彦名神社と彫られています。奈良時代より鋳物師の里として栄え体力の消耗の激しさから薬師の神を祀る。もとは松岡窪、椚、六ヶ町の一部。神社名にちなみ松岡薬師となる。松岡の宮大工は越前北部では有名。永平寺もあり鋳物師は梵鐘などの鐘を造る職人。のちにこの辺りは福井藩の火薬工場が作られるなど職人が多くいた事がわかる。
天正20年(1592年)栃原村五里山に神明神社を建立。天正5年(1577年)栃原村堂ノ西に白山神社を建立。大正に入り神明神社に合祀される。栃原村は江戸末期にたび重なる大洪水で被害は大きく困窮していた。明治3年に庄屋藤四郎が藩士•三岡八郎を介して藩主•松平茂昭公に伝えたところ特別免租の処置が下され村が再興。明治8年に松平茂昭公のご神霊を合祀。大正15年屋根瓦葺替え工事の折、松平侯爵家の承認を得て棟瓦に葵紋をつけた。
延宝8年(1680年)に勧請。御祭神はイザナギ。手繰ケ城山古墳の一部にある神社で丘のような場所に鎮座。もともとは木が生い茂っていた跡があり木の切り株が多く残っている。この手繰ケ城山古墳は4世紀中頃の古墳と言われている。個人的な見解ですが継体天皇は5世紀前後なのでこの古墳は継体天皇の母•振姫の一族と考えていいと思います。その一族とは三尾氏または三国氏と考え継体天皇はこの振姫の一族の力を借りて越前に巨大な国を造ったと考えられます。
鳥居の社額は神明神社。大正13年に神明神社と稲荷神社を白山神社へ合併。もとは上志比村。古くから農業が盛んな地域で天明7年(1787年)の記録には35軒の家の内20軒が高持百姓(土地を持っている百姓の事で比較的裕福な農家と言える。)その広さも大きい。それ以外の家も馬屋や大工など安定した農村部だった。
もとは白山神社で境内社に稲荷神社。昭和11年(1936年)に何故か薬師神社に改称。イザナギ•イザナミはどこへ?最大35村をまとめた大庄屋の赤井家の屋敷があった地域。上志比地区の開墾や堤防を築くなど発展に尽くし近年では上志比村の村長を務めた。赤井家屋敷は国の登録有形文化財。志比大工と呼ばれる職人が造った屋敷らしい。志比大工は永平寺を造ったとされるこの薬師神社も志比大工が造った可能性は高い。
御祭神はタギツヒメ。昭和51年に花崗岩で鳥居を築造。屋根のバランスが違うような……。不思議な造り。入り口に大きな銀杏の木。もともとは牧村、福島村に分かれていたとされるのでこの辺りは旧•福島村と推測。実は近くに多伎都姫神社があり知る限りでは福井県嶺北ではこの2つのみタギツヒメを祀る。
御祭神はホンダワケノミコト。牧村と福島村が合併し牧福島になる。もともとこの二つの地域は分かれたりくっついたりを繰り返している。近くに福島神社がある事からこちらは牧村の鎮守として祀られていると推測。一時は松岡藩領。それ以外は福井藩領。横にお地蔵様がとても上品に置かれていました。勝山街道沿いなので道祖神的なものだと思いますが地元の方に大切にされているのが感じられます。