
不死鳥の如く蘇る越前国
あわら市の歴史
あわら市とは福井県北部に位置し隣の石川県と隣接する。大きく坂井郡に含まれていたがその中の芦原町・金津町が合併しあわら市となった。歴史的には坂井市と一緒に考えていくと分かりやすい地域です。
明治16年(1883年)農地としての土地の灌漑工事の最中にお湯が沸き出たことを起源とするあわら温泉があり観光地として栄えています。

古代
地元豪族が生んだ継体天皇
西暦500年頃大きな力を持ったとされる三尾氏。その流れを汲む継体天皇の母・振姫や継体天皇の妃にも三尾氏から選ばれていることなど継体天皇とは深く関わる勢力だ。
若き日の継体天皇は男大迹王(ヲホドノオオキミ)と呼ばれ坂井郡(あわら市・坂井市・福井市の一部)で育った。その為、継体天皇の妃やご子息に関する話が多く残る。
あわら市中番の本荘春日神社には継体天皇の館があったともいわれる。

荘園
北国最大の藤原氏の荘園
平安時代に絶大な力を持った藤原氏。その藤原氏の勢力を支えたのが北国最大の荘園と言われる河口荘と坪江荘です。現在でも田園が広がる坂井平野は継体天皇や藤原氏の治水工事によって稲作が盛んに行われました。その結果、藤原氏の持つ荘園の中で機内を除けば最大の荘園となり藤原氏経済力を支えました。
あわら市中番の春日神社は河口荘の中心地とされ藤原氏が継体天皇の地盤を受け継いだことが分かります。

武士
武士の台頭・堀江氏と溝江氏
藤原氏の繁栄は長く河口荘・坪江荘ではその流れを汲む疋田斎藤氏が誕生する。さらにその斉藤氏を祖とする堀江氏が生まれる。堀江氏は継体天皇から続く現在のあわら市中番の地盤を引き継ぎ勢力を持ちました。
またあわら市大溝(旧・金津町)を中心に勢力を拡大したのが溝江氏です。大溝地区は溝江郷と呼ばれ栄えました。その理由は河口荘と坪江荘の境に位置し竹田川が流れていたことから三国湊までの水運がありました。その為、荘園の農作物が溝江郷に集まり三国湊などに送られた物流の要所として栄えました。
越前朝倉氏と加賀の一向一揆
あわら市は加賀と国境を接していることから越前朝倉家の加賀一向一揆の防衛ラインでもありさらには蓮如上人が拠点とした吉崎御坊があり加賀一向一揆が始まる地といえる。
永禄十年(1567年)三月、本荘を拠点にした堀江 氏が朝倉家を裏切ると越前朝倉方の溝江氏が攻撃!朝倉家の援軍を得た溝江氏が勝利し堀江氏は加賀へ逃げることとなる。

蓮如
織田信長と天正の争乱
激動の天正年間、織田信長により朝倉家は滅亡。
その後、富田長繁が越前守護代・前波吉継を殺害すると越前国は混沌とした時代に入ってきます。そんな中、越前国の主導権を握ったのが一向一揆たちです。加賀の一向一揆は越前国で勢力を広げる際に真っ先にターゲットにされたのが溝江氏です。
溝江氏は越前朝倉家の対一向一揆の要として戦ったり情報収集を行っていただけでなく、一向一揆に加賀国を追い出された守護の冨樫氏をかくまっていました。溝江氏は奮戦しましたが結局は多勢に無勢。あわら市における溝江氏は滅亡の道を辿ります。

天正
柴田勝家の高田派の安堵
本願寺派(一向一揆)と勢力を争った真宗高田派。この高田派は当時、本願寺派に抑え込まれていましたが織田信長が越前一向一揆の掃討作戦が実施されると高田派を始め日蓮宗、三門徒派の寺院には織田信長から本願寺派を討つように命令がきます。
その中で現在のあわら市熊坂にあったとされる熊坂専修寺には越前侵攻前から織田信長より織田方に従うよう書状が送られていたとされます。このことから当時は熊坂地区は高田派の中心的な拠点だったことが分かります。

熊坂
対加賀前田家最前線としての細呂木関
豊臣秀吉によって細かく分けられた越前国でしたが関ケ原の戦いではほとんどが西軍につき敗軍の将となりました。そんな越前国を一気にまとめあげたのが結城秀康です。
結城秀康は加賀前田家との国境を接する現在のあわら市に家臣の多賀谷三経をおき細呂木に関を設け加賀からくる人々を徹底的に調べました。外様最大の前田家に対してここまで徹底的にできたのは何といっても徳川家康の次男・結城秀康だったからかもしれません。
家臣の多賀谷三経はあわら市柿原に館を構え3万2000石を与えられました。

柿 原

金津
江戸時代には宿場町として栄える金津
越前朝倉氏の時代、溝江氏によって治められていた溝江郷。江戸期に入ると福井藩によって金津奉行所が置かれ九頭竜川以北の行政・治安の管理を行いました。
金津奉行所は竹田川から三国湊を繋ぐ水運があり、加賀前田家が京都や江戸へ行く際に通る北陸道が通るため陸路でも物流や交通の要として栄えます。また十郷用水や竹田川の管理などもしていて農民に対する治水や治安維持などその業務は多岐にわたりました。宿場町金津は大きく栄え発展しました。

伊井
越前の大工は伊井か志比か?
あわら市伊井地区を中心に宮大工集団が多く現れました。当時越前の大工は伊井か志比かと言われるほど実力を持ち現在も残る本荘春日神社、伊井白山神社などは伊井大工が作り上げたと伝わります。
大工たちが集まり話し合いをした太子堂が伊井地区を中心に多く残っています。大工の神と言われる聖徳太子を祀り地域の職人が情報を交換し勉強したグループを太子講と呼びました。粘土層を持つ山間部では瓦などを作り越前瓦の拠点ともなりました。

果実
フルーツ王国の基礎を作った越前松平家
あわら市はフルーツ王国と言われるほど果物の栽培が盛んです。これには松平試農場と呼ばれる最後の福井藩主の息子・松平康荘が明治26年(1893年)に創設した農場でリンゴなどを栽培したのが始まりでした。
当初、福井城内に造られた農場でしたが大正時代に県庁建設の為、あわら市細呂木 地区に移転しました。現在もあわら市には農業支援センターを中心に丘陵地には一面、農地が広がりそこを通る道をフルーツラインと呼んでいます。