鳥居の社額は神明神社。大正13年に神明神社と稲荷神社を白山神社へ合併。もとは上志比村。古くから農業が盛んな地域で天明7年(1787年)の記録には35軒の家の内20軒が高持百姓(土地を持っている百姓の事で比較的裕福な農家と言える。)その広さも大きい。それ以外の家も馬屋や大工など安定した農村部だった。
明治13年に市野々村から分離独立。江戸期は市野々村の枝村だったが他の枝村と異なって長百姓、庄屋などの村役人などが記されていて一村として扱われている。永平寺のある志比村の隣に位置し荒谷地区を超えると住宅はかなり少 なくなります。白山神社の比率がかなり高い地域です。
古くから弁財天を祀り明治に入り白山神社と尊称。福井では珍しい六字天が祀られている。六字天は六字明王と呼ばれ明王なのに菩薩の顔を持った優しそうな明王。片足で立っているのが特徴で木像ならほぼ有形文化財レベル!なぜなら片足で立っているとバランスが悪く倒れて破損しやすいとか…。ちなみにここ飯島地区の六字天は石像なので文化財ではないですが一度、拝見したいです!
祭神に応神天皇。そして、境内社に岩長姫神社があります。個人的にイワナガヒメがでてくる日本神話が大好きで、ニニギはこのイワナガヒメを 送り返してしまう事で永遠の命を失いその子孫は現人神、つまり初代天皇の神武天皇になるという現在にまで続く話の流れが凄いなーと思います。また、イワナガヒメが祀られている地域には何かしらのお話が伝わります。興味深い!
御祭神はタケミカヅチ。元は荒川村と市村とは分かれていた。荒川村は本願寺派は興行寺の門前村として栄えたが一向一揆が越前国から追い出された時に加賀に追われて荒川村は衰退。朝倉氏との戦いと推測。市村は大野方面へ向かう交通の要所として市場的な立ち位置だったと伝わる。神社の前には本願寺派善教寺があり神仏習合の色が濃い。元は天台宗と伝わる。
芦見谷の宮越市右エ門の弟分が山中に分家したのが始まり。その後、山中から川沿いへと移り住み市右エ門島と呼ばれる。元は上志比村。山々に囲まれた農村で日本ぽい風景です。鳥居は笏谷石かな少し青っぽい。近くには弁財天白龍王大権現があり同じ宗像三女神のイチキシマヒメを祀っている。その間の石上地区ではイワナガヒメを祀っていていろんな女神に会える地域です。
泰澄大師が白山に登られる際に立ち寄られ彫られた延命地蔵尊がある。山川菊松の知行地。山川家は結城秀康の下野国時代からの家臣。吉田郡辺りの1万石以上を治めた。市野々村は永平寺川上流域の総称でのちに荒谷地区が大きくなったため市野々荒谷村と記される。
この神の本殿を建てれば必ず雷火の為、焼失するゆえ本殿は建立しない。ただ三尺余りの堅磐石三個を併立した『磐境』(いわさか)をもって神標(かみしるし)とする。永平寺町から丸岡町にかけて伝わるイワナガヒメの話は本当に不思議なものが多い。古来、御神体は閉まった扉の中にあり中々見る事が出来ないのが神社であり、あえて御神体を外に出すのは初めて聞きます。ホント、福井のイワナガヒメは不思議な神様です。
古くは上野とも称した。髪の毛を剃ってしまう白狐の伝説が残る。明治44年に浄法寺村の浄法寺神社(現在の上浄法寺•住吉神社)に合祀したが、書類上の合併で祭祀は続けられた。余談ですが、永平寺町松岡地区にはお殿様の行列の話が多いです。勝山藩の話が多くこの松岡地区を多く通ったと推測できます。髪を剃る話も狐の話も深掘りすると永平寺や稲荷信仰と繋がるのでは?気になるお話です。
文化2年(1805年)に永平寺門前の志比大工•大久保平吉棟梁が本殿を造営。昭和54年に永平寺志比の大久保利一棟梁が本殿を改築。この大久保氏。今もその技術は受け継がれているのかな?わかりませんがあの、越前市大滝町の大滝神社の造営に関わった方に大久保勘左衛門棟梁とあり永平寺大工とあるのでご家族か関係者の方だと思います。
御祭神はイザナギ。九頭龍川沿いの昔は氾濫多発地域。大野郡保田村(現•勝山市鹿谷町保田)に隠棲していた丹波国高見城主の赤井忠清が村人を率いてこの地に入り堤防を造り開田した事に始まる。大野郡の人々の村との思いから大野島となる。赤井家をちょっと調べていたら出てきたのが、波多野氏!丹波波多野氏と共に明智 光秀と戦い破れた人。この事から越前波多野氏と丹波波多野氏は密に繋がっていた事がわかる。
御祭神はアマテラスとワタツミ。白瀧神社の御祭神•ワタツミを明治に入り合祀。もともとは浄法寺村を開拓した井関園次が荒地開田の守護神として祀ったのが始まり。井関園次と言う方は地元では有名のようで石碑や社伝などその名前は多く残っていますが情報は少ないです。鳥居には不動明王が刻まれています。かなり広い境内で整備されていてトイレまであります。
御祭神はソコツツノオ。最近は神社境内の整備がよく行われて木がかなり伐採されています。この住吉神社もかなり木が切られてました。浄法寺の山中には古い寺跡がある。天明の大飢饉には村の7割が餓死したとされる厳しい状況だったじょう浄法寺村。数年後、村の井関園次が水路を開き水田を開拓したと言われる。その後、長雨が続いたが福井市など下流では水害が起きなかったといわれる。
Google mapでは白山神社になっているが古い神社庁の本には八幡神社になっている。上志比小学校西分校跡の石碑がある。神社に関する記載は境内には見られない。詳しくみると隣の牧福島地区になっていて境目になる。牧福島地区には神社庁に登録された2つの神社が鎮座しているので可能性としてこの神社は北島地区の神社と推測する。
上社•下社のふたつを明治中頃に合祀。白山神社と称する。御祭神はイザナミ。御神体は二体とも観音様と伝わる。これは十一面観音と考える。明応4年(1495年)の記録に永平寺と霊梅院の所有となっている。霊梅院は永平寺の六塔頭のひとつで高僧が治める塔と伝わる。神社の前にこそっと不動明王があります。水神かな?見逃してしまいそうな場所ですが中々、迫力のある不動明王です!
大仏寺山麓にある地区。御祭神はアマテラス。拝殿•本殿は福井市宝永の神明神社のものを昭和46年に移築造営している。とても大きくて存在感ある拝殿。福井市宝永の神明神社(福井城に近い県内最大規模の神明神社)の建物を移築したと聞いて納得。
木曽義仲が平家追討の軍を進める中、九頭龍川の洪水で舟筏が出せず太夫坊覚明に願文を書かせて弟野太郎光弘に白山大権現に祈願させたところ洪水がおさまった。神徳を称え白山三所を建立。中世は白山平泉寺三社の弥陀•観音•勢至のひとつ勢至堂があった。天正年間の一向一揆の戦乱の折に本尊が光を放ちこの地に舞い降りたと伝わることからこの地を光明寺と称する。
もとは飛び地で山中の谷に山王元村があり大山祇を祀り山王社をあった。地名は山王信仰から生まれたと考える。越前朝倉家の時に現在地に遷座したと言われる。勝山街道が通り大野藩主が越前松平家の一族だった頃は大野と福井の中継地点として特に栄えた。
曹洞宗の大本山永平寺の鎮守社。永平寺開祖の道元禅師が中国修行を終えた夜、仏教書「碧厳集」を書き写していたがなかなか進まない。そこに白山権現が現れて書写を手伝ってくれた。修行僧が百日間の修行を終えると翌日、白山権現にお礼の参拝をし報恩感謝を申し上げている。白山信仰は根付いてます!
もとは白山神社で境内社に稲荷神社。昭和11年(1936年)に何故か薬師神社に改称。イザナギ•イザナミはどこへ?最大35村をまとめた大庄屋の赤井家の屋敷があった地域。上志比地区の開墾や堤防を築くなど発展に尽くし近年では上志比村の村長を務めた。赤井家屋敷は国の登録有形文化財。志比大工と呼ばれる職人が造った屋敷らしい。志比大工は永平寺を造ったとされるこの薬師神社も志比大工が造った可能性は高い。
御祭神はウワツツノオ。大洪水でだいめじじ谷にあった社殿が流され御神体が下浄法寺下割に漂着したので社殿を築き奉祀した。明治42年、春日神社、神明神社を境内社とする。朝倉家家臣•鰐淵将監吉広の城があったとされる。加賀一向一揆征伐に参加。天正元年、織田信長との戦いに敗れ引壇で討ち死。
朝倉家家臣•笠松氏の屋敷があったとされる地域。一向一揆勢が九頭龍川を超えて一乗谷へ向かう場合、笠松氏などで防衛ラインを築いていたとされる。牛頭天王と地蔵菩薩を祀る。朝倉家家臣の屋敷跡には牛頭天王を祀る神社がある事が多いです。これは戦国武将に人気のスサノオと牛頭天王を同一する神仏習合の考えからだと思います。
長禄元年(1457年)に観音堂として建立。嘉永6年(1853年)高橋地区には観音堂と天王宮の2社があり明治に入り観音堂は白山社、天王宮は神明宮と尊称するようになる。大正3年(1914年)神明宮は谷口地区の春日神社に合祀。
御祭神はスサノオとイザナミ。大正5年(1916年)白山神社を合祀。永平寺町竹原と言えば白竜弁財天が有名ですが古くはスサノオを祀る地域だった事がわかる。この辺りは新田開発の土地が多くあったが丘の上にあり水が乏しく水争いを避ける為、石上村、藤巻村、中島村、市などと一定面積以上の開田を行わない決まりになっていた。永平寺町は弁財天や不動明王を祀り水を大切にする事が多い。九頭龍川が近く水には困らない と思っていましたが山や丘が多いので水に苦慮したんだなと思います。
地元では有名な白蛇伝説が残る。岩の割れ目に白蛇を見るとお金持ちや商売繁盛になると言われる。養老元年(717年)泰澄が開基。古くから弁財天信仰があったが天正年間の一向一揆の兵火で祭祀が途絶える。昭和15年に再興。御祭神はイチキシマヒメ。宗像三女神のひとりで神仏習合では弁財天と同一視されている。
元和3年(1617年)勧請。波多野家が志比の地頭としてこの地に移住。高橋地区に出た大蛇を波多野右馬之氶直近が退治し屍を埋葬した地に社を建立。波多野氏ってよく考えると白山平泉寺から 幕末、そして現在も続いていると聞くのですが凄い家系ですよね。乱世の越前国を生き抜いた数少ない武士の家ですね!この神社も何かいろいろありそうな雰囲気…。
永平寺第2世•懐奘の隠居寺であった如意庵の門前百姓村であった事から寺本と称する。のちに衰退するが万治2年(1659年)第27世•英峻が再興。白山神社は大本山永平寺の鎮守社として関係は深い。立派な界石があり祠があります。境内社はないので古い白山社と考える。となりに如意庵が現在もありそれの鎮守社として鎮座していると考えます。
天正20年(1592年)栃原村五里山に神明神社を建立。天正5年(1577年)栃原村堂ノ西 に白山神社を建立。大正に入り神明神社に合祀される。栃原村は江戸末期にたび重なる大洪水で被害は大きく困窮していた。明治3年に庄屋藤四郎が藩士•三岡八郎を介して藩主•松平茂昭公に伝えたところ特別免租の処置が下され村が再興。明治8年に松平茂昭公のご神霊を合祀。大正15年屋根瓦葺替え工事の折、松平侯爵家の承認を得て棟瓦に葵紋をつけた。
八幡神社•応神天皇、日吉神社•オオヤマサク、神明社•アマテラス、白山姫神社•イザナミ、少名彦神社•スクナヒコナの五社が合祀されている。神明社の石碑有り。丘の上にあり轟地区一体が見渡せる。その高い丘の上に中部縦貫自動車道が通っている景色が不思議な風景。轟地区には轟遺跡と言われる縄文時代の遺跡や時代不明の砦が複数ある。
福井の川上と呼ばれる神社は基本、女神の場合が多いがここは男神。見渡す限り田園風景が広がる九頭龍川沿い。山々に囲まれて風景はいい。隣村の竹原村への出作を行なっていたり勝山街道が通っているので大野郡の年貢米を松岡まで輸送したりして生計を建てていた。本殿は志比大工の作品かな?本殿は古く作り込まれた感じ。
九頭龍川の戦いの際は川の向かいの志比庄(永平寺町東古市付近)に朝倉景織3300。ここ鳴鹿山鹿には一向一揆勢は加賀勢•超勝寺•本向寺からなる55000が押し寄せる。江戸期の白方村(福井市)の商人によるとこの地は交通の要所で大野•勝山まで塩を売り歩き、帰りはタバコを仕入れて売り歩く。と言われここ鳴鹿山鹿はたくさんの商人が通ったと言われています。
御祭神はアメノコヤネ。地名通り鹿の話が多く伝わる。荘園の時代に河口荘が水を求めていた時、春日明神の夢告があり川上へ向かうと鹿が3回鳴いた為、お告げの通りそこから水を引いて出来た用水が現在の十郷用水となる。鹿が鳴いた地を鳴鹿と呼ぶ。九頭龍川の戦いの時は朝倉景職勢と加賀から超勝寺が鳴鹿で対陣した。福井市舟橋の舟で出来た橋を明治に入り木橋が出来、不要となった舟を買取り両岸を舟で繋ぎ舟橋を作った。
福井藩主•松平忠昌から村内の一部を白山社領として寄進されていたので藩の庄屋と社領の庄屋が置かれていた。明治16年野中村西から現在地に遷座。野中地区の西には仏像があるのでもしかするとこの辺りにあったのかもしれない。弁財天かな?繊細な石像です。
長禄元年(1457年)中世に波多野氏の城山の艮の守り(うしとらのまもり)に毘沙門天を勧請。明治に入り現在の堂の上に遷座。近くに波多野城があります。花谷地区に六地蔵を発見!最近、六地蔵があると立ち止まってしまいます。
勝山街道が通る宿場街のひとつ。九頭龍川の鳴鹿の渡しを渡ると丸岡道に繋がる。永平寺へ向かう道にもなり交通の要衝にあたるため市が開かれていた。街道沿いには道祖神的なお地蔵様が大体あります。福井市の古市村と区別するため東古市村に改称。浄土真宗本願寺派本覚寺が近くにあります。
神社庁や市町村誌には載っていない謎の熊野神社。中には蛇の御神体があり熊野竜王大権現と記載してあります。泰澄の吉野ヶ丘の丸岡方面なので泰澄関係なのかな?凄い気になります。情報求む!志比荘の四至傍示(しじほうじ)という東西南北の方角の杭が建てられたことが法寺岡の名前の由来と言われている。山川菊松の知行地。
元暦年間(1184-1185年)に波多野出雲守義重が勧請。この辺りは波多野氏の影響力が強い地域。藤巻の地名。ある方に藤は水運に必要なヒモの役割をして大切な物だったと聞きました。そう言えば森田地区の藤巻にも九頭龍川の舟渡の話があり、ここ藤巻地区にも舟渡の場所。藤巻と呼ばれる場所は水運の拠点であると気づいた。
御祭神はタケミカヅチ。白山平泉寺の記録には小舟渡という九頭龍川の渡守があり、普段は竹原村に出作していた。藤巻館があったとされるが現在は住宅地。朝倉家家臣の乙部氏はもともと福井市中角町に館を構えていたがこの藤巻館に居住した。その理由は中角の館を一向一揆に奪われて藤巻館に来たとか、一向一揆との戦いで功を立て藤巻館に来たとか…詳細は不明。結局、一向一揆の大将のひとり河井ノ八杉が藤巻館を落とし乙部氏は南部氏と名を改めて生き延び現在も続くと聞きます。
延宝8年(1680年)に勧請。御祭神はイザナギ。手繰ケ城山古墳の一部にある神社で丘のような場所に鎮座。もともとは木が生い茂ってい た跡があり木の切り株が多く残っている。この手繰ケ城山古墳は4世紀中頃の古墳と言われている。個人的な見解ですが継体天皇は5世紀前後なのでこの古墳は継体天皇の母•振姫の一族と考えていいと思います。その一族とは三尾氏または三国氏と考え継体天皇はこの振姫の一族の力を借りて越前に巨大な国を造ったと考えられます。
御祭神はタギツヒメ。昭和51年に花崗岩で鳥居を築造。屋根のバランスが違うような……。不思議な造り。入り口に大きな銀杏の木。もともとは牧村、福島村に分かれていたとされるのでこの辺りは旧•福島村と推測。実は近くに多伎都姫神社があり知る限りでは福井県嶺北ではこの2つのみタギツヒメを祀る。
御祭神はホンダワケノミコト。牧村と福島村が合併し牧福島になる。もともとこの二つの地域は分かれたりくっついたりを繰り返している。近くに福島神社がある事からこちらは牧村の鎮守として祀られていると推測。一時は松岡藩領。それ以外は福井藩領。横にお地蔵様がとても上品に置かれていました。勝山街道沿いなので道祖神的なものだと思いますが地元の方に大切にされているのが感じられます。
式内社。養老元年(717年)鎮座。越前国芝原庄の第一の総社と伝わる。のちに春日信仰と結びつき春日大明神と称する。松平昌勝が入り松岡藩が誕生。松平昌勝は柴神社に館を構えた為、柴神社は現在地に移動。境内社にはオオヤマクイの名前の彫られた石や石を円形に並べた磐座のようなものがあり神秘的な雰囲気が漂います。
式内社の柴神社の境内神社。江戸時代の柴神社は宝泉院、青松寺が別当支配していたが明治4年の神仏分離によって宝泉院は吉祥院として不動院と合併。明治時代の神仏分離令は不動明王や薬師如来を含め神社が大きく変化した時代。福井城下繁栄のためお渡りが奨励されていた。葵の御紋が福井藩との関係の深さを感じさせます。
山王権現を祀る。大正4年に日吉社猿田彦命を合祀。日吉神社とする。地区にあるお寺、平慶寺の祐全は川遊びで溺れかかった松岡藩主•松平昌勝を助けたことから、特別な庇護を受け渡り村内北野上村飛地を越石として所持。
この辺りは日吉神社、御祭神はサルタヒコが多い。もちろんこの神社も御祭神はサルタヒコ。山王権現として祀られたとあり越前五山のひとつ吉野ケ岳は別名を蔵王山と呼び永平寺町吉野地区にある。泰澄大師が開いた霊山とされるのでこの山が関係してくるのかなー?歴代鬼瓦が並ぶ境内には土俵もあるようだ。結城秀康の時代には結城四天王の山川氏が治めた。
泰澄大師が開山したと言われる越前5山のひとつ吉野ヶ岳の山頂に鎮座する神社。泰澄大師は白山信仰を確立した僧。現在に残る話がすべてホントだとすると山の達人というか、これが修験道なんだろうなーと思います。蔵王権現は修験道の神様としてはメジャーな神様で正式には金剛蔵王権現という。山籠りなど山岳信仰は明治時代に禁止されましたが合気道など形を変えて今も残っています 。
江戸期•松岡藩城下町の松岡八町のひとつ椚町。勝山街道の宿駅にもなる。七面山八景(現•明神山)と呼ばれ越前有数の景勝地とされた。この神社は明神社のふもとに鎮座しています。文明3年(1471年)越前朝倉家によりアマテラスを毘沙門堂に祀ったことから始まる。現在の松岡駅はもともと神明社だったが町発展の為、境内地を譲渡して明神社に合祀。
社伝には南北朝時代に徳永氏がこの地を領し当社に社領を寄進した。氏子の人々は徳永神社と呼ぶ。この小畑地区から福井市坂下地区を結ぶ朝倉街道がある。この山の上に徳永城跡がありその跡に徳永神社があったが明治に入り白山神社と合祀している。徳永氏…初めて聞きました。調べても出て来ません。笑。もしかして新田義貞がこの辺りを攻めた時に敗れたのかな?まだまだ知らない事あります。
御祭神はイザナギ。式内社の椎前神社鎮座の地とも言われていて北陸最大級の前方後円墳の手繰ケ城山古墳もある。延宝8年(1680年)白山神社、寛政年間に八幡宮を合祀。神社の前を電車が通る。八幡水と書かれた不動明王があります。松岡地区は水の神様として不動明王を祀る事が多く湧水など水に関する地に不動明王を祀っています。鋳物師なと職人の多い地域でもあり芝原鋳物師と呼ばれ世に広がったと伝わります。
神社庁ホームページにはありますが確認とれません。昭和46年に最後の一家が引越し無住。郷土史には鎮守。神明神社には室町初期の木造狛犬1対が残るとあります。Google mapには無し。該当番地存在わからず。
古くは相槻と呼ばれる。九頭龍川の渡可点とされ九頭龍川北側の村にとっては松岡藩への年貢や丸岡藩への近道としてこの地区を通る。大正年間に五松橋が完成。
安永2年(1773年)福井藩金津領、山王権現を祀ると記録にある。上合月、下合月とあわせて合月3村と呼ばれるが、のちに五領ケ島村になる。この辺りは猿田彦命を祀る日吉神社が多い地域です。
御祭神はオオナムチことオオクニヌシ。近くにスクナヒコナを祀る神社もあり共に協力し国造りを行った日本神話に基づいている?のかな?この神社の情報は少ないです。松岡地区は日吉神社•サルタヒコが多い地域です。オオナムチを祀る神社はここのみ。吉野谷の盆地中央に野中村がありその西に位置する為、西野中村と称する。
境内社・守命の堂。応神天皇と高城入姫との子、大山守命を祀る。守命堂(もりめのどう)と呼ばれる。大山守命は弟が皇太子になることを恨み殺害を試みたところ失敗し逆に死んでしまいます。この地区になぜ大山守命を祀っているのかは疑問。
御祭神は豊雲野神(トヨクモノ)。かなりマニアックな神様を祀っていますが社伝や情報はなくなかなか謎めいた神社です。越前五山の蔵王山の麓に位置し何かしら山岳信仰に関わる神社かなと推測。もとは猪谷村(現•湯谷)の枝村。吉野谷の中央に位置する。
御祭神はスクナヒコナ。薬師神社の石柱の裏に少名彦名神社と彫られています。奈良時代より鋳物師の里として栄え体力の消耗の激しさから薬師の神を祀る。もとは松岡窪、椚、六ヶ町の一部。神社名にちなみ松岡薬師となる。松岡の宮大工は越前北部では有名。永平寺もあり鋳物師は梵鐘などの鐘を造る職人。のちにこの辺りは福井藩の火薬工場が作られるなど職人が多くいた事がわかる。
御祭神はアマテラスと牛頭天王。御神体の薬師如来と不動明王は室町初期の作像で町の指定文化財。中世の頃は蔵王山は山岳信仰の霊場で湯谷神明神社には雨宝童子が祀られていた。これは山岳仏教が天台宗であった事を表す。この蔵王山は越前五山と呼ばれる白山信仰の祖•泰澄が開いた山々でこの泰澄はもともと天台宗の僧なので社伝の内容は理解できる。雨宝童子はアマテラスの事で廃仏毀釈を受けた。それなのにこうやって受け継がれているのが凄い。牛頭天王もそうだけどー。
御祭神は応神天皇。古来より小山と呼ばれ聖地として崇めてきた古墳。そこに室町時代中頃に八幡神社を建立したと考える。神社庁には載っていない神社。春は泰澄の誕生日の4月18日に祭りを行う。やっぱり吉野地区だけあって泰澄大師は しっかり崇拝していますね。
吉野谷の谷口にある地区で芝原郷に含まれる。この神社の祭神の中に坂上苅田麻呂がいます。これは坂上田村麻呂のお父さんにあたる方です。近くに二本松山古墳がありそこの石棺に坂上苅田と彫られたいたので坂上苅田麻呂の墓だー!となり坂上神社を建立。しかしこの坂上苅田が彫られた時期が違うなどいろいろ違うことが判明。のちにこの日吉神社に合祀された。この辺りの新興住宅地はこの事から坂上地区と言うらしい。
地図上には山王神社とありますがその他社伝などの記録はありません。おおよその予想はつくので個人的な考えとして。同じ地区に日吉神社があります。どちらとも山岳信仰で同じような神社なので以前はここに鎮座していたんだと思います。近くに吉野ケ丘(蔵王山)があります。泰澄が開いた修験道の越前五山のひとつで地名が吉野境なのでこの山王神社は入口的な役割をしていた可能性があります。
古くは十郷用水を縁に創建されたと伝わる。寛政元年(1789年)大出水に社殿流出し鳥居•笏谷石のみ残り、社殿を造営。丸岡藩旗本•本多大膳家の領地の一部。
九頭龍川の氾濫により流れが変わり新田村(福井市新田本町)が離れて地主らが移住し小郷を成し たのが渡新田の由来。元は渡り村。松岡町のこの辺りはホントに日吉神社が多い。さらに日吉神社は普通、山王権現を祀る事が多いんですがでこの辺りは猿田彦神を祀っているのも共通点。なんでかな?深掘りしたいところです。
結城秀康の頃は山川菊松の1万7000石の一部。その昔は白山平泉寺や越前朝倉家の影響力が大きい地域。観音様を隣村の東古市村に両村で合祀。永平寺町の神社の注連縄って特徴ある飾り方していますよね。ちょび髭みたいに両端を上げた。いろいろ調べましたが詳細は分かりませんでしたm(_ _)mが気になりますね。笑
御祭神は神武天 皇、アメノコヤネ。鳥居には薬師の文字が刻まれている。文政3年(1820年)大旱魃があった際に3つの溜池を造りその守護としてアメノコヤネを祀り溜池神社と称する。明治に入り吉波神社に合祀。現在も溜池あり。山があり九頭龍川に接している事から年貢は米は少なく燃料となる木材や川魚を売って納めていた。川での漁を認められていた地域。
養老年間(717-723年)に泰澄大師が白山の大神を勧請。永平寺開基の道元禅師が吉峰山頂に一字を建立して永平寺の鎮守として祀った。ここ吉峰は道元禅師が越前で初めて開いた道場、曹洞宗吉峰寺がある。永平寺も白山神社を鎮守としているがここ吉峰寺も白山神社を祀っている。曹洞宗と白山信仰は強く繋がっている。吉峰寺にあるのかなと思ったけど住宅地にひっそりと鎮座していました。吉峰寺に向かう道にはあるけど。目の前は吉峰川。白山信仰にも曹洞宗にも関わりのある神社。