越前市にある花筐公園・岡太神社の奥・石象山と呼ばれる山の頂上に位置する金比羅神社。長保3年(1001年)藤原実秋創建。藤原氏全盛期に建てられた神社で藤原氏ゆかりの春日神社でないところが気になる。スサノオ、猿田彦などと一緒に山伏姿の荒神を祀る。この荒神は鯖江藩家老の鈴木源左衛門が長女の美喜姫と粟田部の商人の宮川徳三郎との恋を許した際に贈られた木像の守り神。
北陸街道に沿った宿場町。豊臣秀吉の書状に今宿駅と見え戦国時代には宿場町として発展した事がわかる。日吉神社はもともと西方の赤山頂上に鎮座していたと伝わる。隣には日蓮宗光明山妙勧寺あり越前朝倉家から寺領を与えられていたので天正3年に織田信長軍により焼失した。日吉神社の別当寺と考える。
御祭神はニエモツノコ。式内社。これまた珍しい神様です。また、式内社•鵜甘神社とされる神社はいくつかありどこがホントの式内社かはわからない状態。ただ、古代豪族の生江氏の御先祖とされ生江氏との関係性のある地域に祀られているとされ今立郡、大野郡、足羽郡辺りとされる。でもー、生江氏は謎の多い豪族なので鵜甘神社も謎が多い。木像四天王像の3体が越前市指定文化財になっている。ちらっと拝殿をみたら四天王らしき木像があるけどセキュリティ甘くない?違うかもしれないけど本物なら盗まれちゃうよー。
養老元年(717年)鎮座。朝倉大膳の祈願所とされる。この朝倉大膳はこの地にあったと言われる赤良柏城を治めた。現在も伝わる帆山城跡との関係はわからないがこの辺りには城跡の話は多い。御祭神の中に大屋津姫がいる。地名との関係はないとされるがスサノオの娘 にあたり珍しい。屋根の棟に置く笏谷石が置いてありました。持ってみようと思いましたがビクともしないほど重い!これが屋根の上にあったと考えると凄い。昔の人はどうやってこの棟石を屋根の上まで運んだのかなー。驚き。
古くは継体天皇がお参りしたとも伝わる事からその歴史は古い。室町時代に足利義嗣がこの地に来られ鞍谷の姓を名乗りこの神社を氏神とし崇める。天正年間には朝倉家家臣の北村氏の館があったと言われる。一向一揆と一緒に冨田長繁と対立するが織田信長の一向一揆掃討戦の時に北村家は滅亡。その時にこの神社も焼失したと伝わる。
越前国の総社。御祭神はオオナムチ。ホームページを見ると孝謙天皇も祀られています。詳細は分かりませんが女帝でありそれを惑わす道鏡が有名な時代の天皇。越前の国司が国内の官社や神 社を巡るのが大変な為、国司所祭の神霊を一ヶ所に集め合祀したのがこの総社大神宮。当時の越前国は加賀国も含まれていてかなり大きな大国。当時の交通網を考えると大変すぎます。
御祭神はオオナムチ。地元では総社大神宮と呼ばれ鳥居の社額にも記載あり。神社庁には神明神社で登録されている。これはその昔は越前市京町にある武生総社大神宮の鍵番を葛岡地区が行っていた事により同じ名前を称していた。観音堂があったと伝わる。本殿の屋根が凄いです。流造の屋根の上にまた屋 根があり屋根瓦が二重になっています。下の屋根にも瓦かあるのかな?不思議な造りです。
養老年間(717-724年)の創建。建武の頃(1334-1336年)南に清水があり水を引くべしと当村の信仰厚き老人にご神託があり村民は清水を見つけ水を引き清水川と呼ぶ。朝倉氏が八幡神社の場所に戸谷城を築いた。神罰を恐れ現在地に社殿を移した。実際に朝倉方の長尾氏が三里山山頂に椿山城を築きこの戸谷地区に木戸を築いたとある。朝倉氏滅亡後、長尾氏は脱俗し大円寺(現•関泉寺)を相続。
鞍谷3ヶ村のひとつでその真ん中に位置したので中居と呼ばれる。越前市指定文化財の木像四天王像の1体が置かれている。やっぱり覗くと見れる四天王像。セキュリティ気になる。凄く雰囲気のある神社で拝殿に繋がる階段やその脇にある四天王像などを置いてある建物。その高さから見渡せる境内が素晴らしいです!本殿の彫刻も素晴らしく立派です。参道入口にある明暦元年(1655年)創建の慈徳院は位置からすると別当寺と推測。一時は小学校でもあったらしい。
御祭神は本多富正公。福井藩の筆頭家老であり結城秀康が亡くなった後の福井を支えた人物。丸岡藩の本多成重とは従兄弟の関係で越前騒動で失脚した今村盛次の後に本多富正が推挙した。本多家館にあった外郭に巡らしてあった藤垣にちなんで名前が付けられた。結城秀康の旗があり追 遠歸厚の石碑があります。先祖の徳、昔の事を思いしのぶと言う意味らしいです。