源氏も朝倉家も頼った白山平泉寺が鎮座する勝山市の歴史 | 不死鳥の如く蘇る越前国
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不死鳥の如く蘇る越前国

勝山市の歴史

 白山信仰の越前の拠点、平泉寺白山神社があり室町時代には48社、36堂、6000坊の院坊を備え、僧兵8000人を抱える巨大な宗教都市にまで発展。日本一の法師大名とまで言われた。白山神社が多いことはもちろん、勝山藩が置かれた街中では八幡神社、神明神社がある。

​勝山市の神社更新状況

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​白山平泉寺

​ 白山の頂上へ向かう拠点のひとつ越前馬場がおかれた白山平泉寺。白山信仰の祖・泰澄大師は越前の出身で勝山市は泰澄の母親の実家となります。白山の女神と出会った地でもあり白山信仰の影響が強い地域です。

 そんな白山平泉寺は越前の動乱には必ず影響を与えてきました。木曽義仲が越前で敗れた時も平泉寺がからみ南北朝、戦国時代にも白山平泉寺は大きく戦いの中で影響力を発揮していきます。

 

 江戸時代には白山頂上本社の祭祀権を認められ白山信仰の総本山となりましたが明治に入り神仏分離令の影響を受け寺としての機能を止め、白山頂上本社の祭祀権を白山比咩神社の所有になるなど衰退への道に向かいます。

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小笠原氏の勝山藩

 勝山藩が正式にできたのは2代藩主・松平忠直が追放され幕府が直接福井藩を管理した際に支藩として結城秀康の5男の松平直基が治める勝山藩が誕生する。しかしその後は大野藩や福井藩との調整が続き一旦、廃藩となる。

​ 元禄4年(1691年)に美濃国高須藩より小笠原貞信が2万2000石で勝山に入り、再び勝山藩が立藩する。

 勝山藩は小藩で財政難が続き飢饉や水害などで百姓一揆が多く厳しい藩政運営を行っていた。さらに将軍家はもちろん福井藩の越前松平家、白山平泉寺や過去に影響力を持った一向一揆関係の寺院などにも配慮し想像するだけで厳しい藩政運営を行ったと考えられる。

 

​一向一揆・七山家

​ 勝山市の戦国時代は一向一揆の七山家が徹底抗戦を行った地域で、中でも白山平泉寺と朝倉景鏡の連合軍と戦い、勝利したことで一向一揆が城を築いた村岡山を勝山と呼ぶようになったことが勝山の由来とされています。

 織田軍との戦いの中では勝山の一向一揆を制圧するために進軍してきた柴田勝家の甥・柴田義宣を討ち取るなどその存在感を示します。

​ 最終的に勝山を追われた一向一揆は加賀へ逃げていくこととなります。

村岡神社

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