信長・秀吉・家康に仕えた気相の人・金森長近が造り上げた越前大野の城下町不死鳥の如く蘇る越前国
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信長・秀吉・家康に仕えた気相の人・金森長近が造り上げた越前大野の城下町


信長・秀吉・家康に仕えた気相の人・金森長近が造り上げた越前大野の城下町

1,戦国の時代を豊臣秀吉や前田利家と共に駆け抜けた金森長近

尾山神社の前田利家像
金森長近と経歴が似ている前田利家

 金森長近を語る上で欠かせない人物がいます。それは加賀百万石の礎を築き豊臣秀吉の友人でもあった前田利家です。金森長近と前田利家は過去のバックヤードがとても似ていてそのことから豊臣秀吉との関係も前田利家と同様に親しいのではないかと考えます。


 織田信長時代、金森長近は前田利家と同じ赤母衣衆の一人として織田信長に仕えます。この赤母衣衆(アカホロシュウ)とは母衣(ほろ)をまとった10人ほどの集団でもともと弓などの飛び道具から身を守る母衣と呼ばれる風船のようなものを背中に背負っていましたが戦国時代に入るとその風船のような目立つ母衣をカラフルにし防御性というよりはその奇抜なデザインを利用し強さや権力の象徴とし近習など身の回りを守る精鋭部隊にのみ着用が許可された。派手好みの織田信長は黒母衣衆・赤母衣衆といった集団を形成。次男・三男などの家督を継がない男子の中から優秀な人物を抜擢し身の回りの世話をさせた。その中にいたのがこの金森長近と前田利家です。


 本能寺の変後、豊臣秀吉と柴田勝家との戦い『賤ヶ岳の戦い』では北国衆の一員として柴田勝家に従い戦う金森長近は佐久間盛政の軍が壊滅寸前に至ると戦線を離脱します。これは前田利家と同じ行動をとっており原因は不明ですが金森長近と前田利家は豊臣秀吉と何らかの裏取引を行っていた可能性があります。事実、柴田勝家についた武将の中で所領がそのまま安堵されたのは前田利家と金森長近だけです


 そんな豊臣秀吉との逸話がとても面白いものが多い金森長近、千利休が豊臣秀吉の命で切腹させられた時、その嫡男である千道安飛騨高山でかくまったのが金森長近です。これは金森長近は千利休の弟子としてそして茶人として深い間柄だった為と言われています。また、体調を崩した豊臣秀吉と有馬温泉へ行き12~13歳も年上の金森長近秀吉を背負って温泉にはいったとも言われています。これらの話は豊臣秀吉と金森長近の親密ぶりを表す逸話でとても興味深い内容になっています。


 関ケ原の戦いでは最年長77歳の金森長近は徳川家康(当時59歳)と織田信長時代の思い出話で盛り上がったといわれています。そんな徳川家康から『気相の人』と呼ばれました。気相とは空気のように自然にそこにあるような存在という意味で金森長近の人間性がとてもわかる表現です。


 金森長近は前田利家とよく似た歩みをたどりますが長寿で86歳まで生きました。桶狭間の戦いから関ケ原の戦いまでまさに戦国時代を生きた人生と言えます。また数々の逸話やバックヤードからは金森長近、前田利家、豊臣秀吉の関係性は十分すぎるほど伝わってきます。


2,金森長近が越前大野を治めるまで


 天正3年・長篠の戦いに勝利し甲斐・武田氏との状態にひと段落した織田信長は越前侵攻を進めます。当時の越前は朝倉義景が織田信長によって滅ぼされた後、旧朝倉家臣団の争いに乗じて本願寺が越前を抑えます。しかし、越前国の本願寺の一向一揆勢は1枚板ではなく徹底抗戦で熱くなる大坂派、もう越前での戦いはやめてほしい越前派、上杉謙信が気になって地元に帰りたい加賀派の3つの思惑が交差しまとまっていません。そんな様子を確認した織田信長は今がチャンスと越前侵攻を進めます。


 そんな中、金森長近はいち早く先陣として越前に入ります。金森長近は原政茂と共に美濃から越前・大野郡に侵攻しました。まず、日蓮門徒、三門徒などの本願寺派とは違う宗派や地域の有力者に対し越前侵攻の際に協力してくれればたとえ今は一向一揆の一員として加わっていたとしても罪を許し恩賞を与えるという内容を伝えます。詳細については大野郡の真宗高田派の専福寺(大野市友兼)、賢松寺(現在の曽源寺・大野市明倫町)、保福寺(不明)の三カ寺、および土豪6人に対し金森長近から書状が送られていて協力を求められています。

越前町にある織田信長像

 金森長近は大野郡笹俣(大野市下笹又~中島付近)に陣を置きました。その数は680名。一揆勢は中根主税(ちから)を中心に迎え撃ちましたが金森長近は一揆勢を打ち破ります。しかし、中根主税は残兵を集めその日のうちに夜討ちを仕掛け金森長近は二か所の傷を負うなど苦戦をしいられます。その後、遠藤惣兵衛らの防戦によって一揆勢は退却しました。そんな中、織田信長本陣が越前に入国。今立郡大滝(越前市大滝町)に集結していた一揆勢に対し滝川一益率いる4500が攻撃。一揆勢は敗退。南側から織田信長本陣は大野郡に近づき東からは金森長近などが迫り大野郡の一揆勢は劣勢に陥ります。その為、本願寺蓮如は大野郡北袋五十三カ村に対し「このままでは越前国の仏法は破滅する。一層奮励せよ。」と檄文を発している。しかし、織田信長本陣が府中(越前市)、一乗谷、豊原寺(坂井市丸岡町)、北庄(福井市)を制圧すると柴田勝家に北庄、府中には柴田勝家の目付として不破光治、佐々成政、前田利家を置きました。これには南条郡、今立郡を含みます。敦賀郡には武藤舜秀(きよひで)、そして大野郡は金森長近と原正茂に与えられました。当時の大野郡は広く現在の勝山市、大野市だけでなく福井市美山地区も含まれていて越前国では一番大きな領地ででした。そんな大きな領地の中で現在の大野市の中心地を治めたのが金森長近でした。


3,金森長近が大野郡で行ったこと

大野城下から見える亀山の大野城


 金森長近は大野に入ると戌山城(大野市犬山地区)に入りましたが亀山に移動し亀山東側麓一帯に城下町を建設します。これが現在の大野市の城下町の基礎となります。現在の越前大野城が建つ亀山はもともとイヤマと呼ばれていてすでに斯波氏時代から城郭があったといわれ『朝倉始末記』には朝倉景鏡が義景を討った時に拠ったとする居山ノ城はこの亀山とも考えられている。


亀山の頂上に見える大野城。金森長近が縄張りを行い後の大野城の基本となったと考えられます。


 
朝倉光玖の屋敷跡と伝わる光玖寺

 現在の大野市寺町(大野市錦町付近)、古町(大野市春日付近)は早くから町として開かれていた。ここには室町期の二宮氏、越前朝倉家の大野郡司・朝倉光玖などが屋敷を構えたといわれていて当時は政治的中心地であった。


朝倉景鏡の前に大野郡司を務めた朝倉光玖の館跡と伝わる光玖寺。応仁の乱で主家の斯波氏を裏切って、大野での戦いで勝利した朝倉孝景は、越前国主に君臨した。その孝景の弟・朝倉光玖は、斯波氏の影響の強かった大野郡を治め大野郡司となりました。


 
大野城下に建てられている四番通りの碑

 金森長近が造り上げた城下町の最大の特徴のひとつに職人などの商工業者を積極的に城下町に集め機能別に町割りを行ったことがあります。もともと形成されていた寺町から大鋸町、皮屋町、鍛治町、大工町、鷹匠町などの職人別の町割りがされた。

 特に鍛冶衆には他所移住を禁じ城下に住まわせた。これには鉄砲の技術や刀などの武器の製造など当時最先端の技術を城下で管理していきたい思惑が考えられます。朝倉家時代から特別な待遇を受けていた大野郡の鍛冶衆にそのままその特権を安堵し新規参入は許可制とし管理下におかれた鍛冶職人以外の者による鎌、鍬、釘などの行商を禁止しました。



 大野城下での鍛冶職人に金森長近特権商工業者の権益を保護する一方で強制的に城下に住まわせ大野郡での金物の動きを把握し統制を行い営業税を徴収していたと考えられます。この鍛冶町は現在の大野城下では四番通り付近と考えられています。現在は石碑だけがありその面影はありません。

 
現在もたくさんのお寺が残る大野市の寺町通り

 金森長近は織田信長が越前を平定した天正3年(1575年)に大野郡に入り、豊臣秀吉が越中攻めで佐々成政を破った天正14年(1586年)に豊臣秀吉によって飛騨一国を与えられます。飛騨国は綾小路自綱(あやのこうじよりつな)が本能寺の変後の乱れに乗じて飛騨国を治めていてさらに豊臣秀吉に反抗し佐々成政との結びつきが強かった。この綾小路自綱を破ったのが豊臣秀吉の指示を受けた金森長近です。秀吉は大野郡を治めその礎を築いた金森長近に新しく飛騨国を治めさせました


 現在の大野市の城下町の造りは金森長近の考えによるものが大きい。そんな今に残る大野市中心地は越前の小京都と呼ばれ昔の面影を残す七間通りや寺町通りがあります。織田信長の街づくりを見て学んでいった金森長近が築き上げた大野市の街は安土桃山時代の街づくりが今も残る越前では数少ない城下町です


 

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