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【神社巡り永平寺町総集編】福井県永平寺町の全神社参拝して感じたおすすめ5社
福井県吉田郡永平寺町にある神社を全部参拝して感じた永平寺町の神社。その中から5社をピックアップしてここにまとめてみました!永平寺町を代表する神社の松岡春日に鎮座する柴神社や永平寺町に多くの伝説を残すイワナガヒメを御祭神とする岩那美神社、永平寺の鎮守の白山神社、パワースポットとしても有名な竹原弁財天社など福井県でも知られた神社が多く鎮座しています。
o_kataka
2025年12月18日


『貞享の大法』で揺れた福井藩!松平昌親の藩政改革と再興の道
鯖江市を拠点としている FMたんなん夢レディオ で番組をやる機会をいただき鯖江市の歴史を再度、勉強しています。坂井市民の私にとって鯖江市や越前市は興味はあるけれどなかなか行く機会のない地域です。これを機に 鯖江市・越前市を深堀してやろう と鯖江市をウロウロしています。 鯖江市 と言えば 松平昌親 を思い起こすのは自分だけかな?? 越前松平家最大のピンチ 『 貞享の大法 』を受けた 福井藩 ! この大変な時期を支えた福井藩主・松平昌親公は鯖江吉江藩の藩主でもあります。 越前吉江藩誕生!藩主・松平昌親の誕生! 兄・松平光通の自殺に揺れる福井藩 まさかの仕事放棄??6代藩主・松平剛昌 貞享の大法で揺れる福井藩!屈辱的な家格低下! 耐えた松平昌親 72歳で眠りにつく 1.越前吉江藩誕生!藩主・松平昌親の誕生! 福井藩3代藩主の松平忠昌 には優秀な男子が3人いたとされます。 長男の昌勝 、 次男の光通 、 5男の昌親 です。その他の男子は幼きときに命を落としたりしたとされ忠昌はこの3人にそれぞれ知行地を与え 3人で越前松平家を盛り上げるように託した
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2025年10月31日


坂井郡33座のひとつ横山神社とは??【式内社】三国真人の祖・椀子皇子の拠点か?坂井市丸岡町坪江
坂井市丸岡町とあわら市に連なる横山古墳群の麓に位置する神社。古墳の多さやその造られた時期から継体天皇との関係が強く考えられる神社。2つの横山神社に挟まれた位置に横山古墳群最大の前方後円墳の神奈備山古墳がある。さらにその横に椀貸山古墳(わんかしやまこふん)がある。実は、この椀貸山古墳は椀子皇子の墓とされています。
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2025年10月5日


【魚津城の戦い】不運の城・魚津城跡で感じた命を懸けた上杉軍と守護神スサノオ
魚津といえば魚津城。上杉景勝と柴田勝家ら織田方との戦いの場となったのが魚津城です。命を懸けた上杉軍の熱い想いを支えた守護神スサノオ。魚津城で戦い敗れた上杉軍は総勢3800人!魚津城の中条景泰たちは天正10年6月3日に自害し、魚津城は落城した。しかししかし!この日の前日、歴史的急変が起きていました!そう、本能寺の変!歴史の渦に巻き込まれた魚津城の悲劇を感じながら初めての魚津市内探索のご報告です!
o_kataka
2025年8月29日


坂井郡33座のひとつ鵜屎神社は??【式内社】継体天皇は鵜の排泄物を儀式で利用?三国町川崎の鵜森神社か!
三国町川崎に鎮座する鵜森神社は鵜屎神社の比定社と言われることが多い。ただ、いろいろ不明な点は多く詳細は分かっていない。≪社伝から読み取る3つのポイント≫その1鵜屎神社で採れた鳥の屎は化粧用として朝廷へ贈られた。その2当時は湖上に浮かぶ森に天照大神を祀り宮居を建てたのが鵜屎神社の始まり。その3継体天皇は18年の年月を坂井平野の治水に努めた。当時の化粧とは女性を美しくする現在のイメ
ージではなく、儀式に参加する女性などを神々に捧げるために化粧させたと考えるとこの斎神社で行われた儀式と化粧が結びついてきます。私はこの三国町覚善の白山神社が鵜屎神社の比定社と考えます。
o_kataka
2025年8月14日


坂井郡33座のひとつ布久漏神社は??【式内社】継体天皇の皇女・円弥媛命由縁の地の丸岡町北横地に鎮座!
丸岡町北横地の福井丸岡線沿いに鎮座する布久漏神社(ふくろじんじゃ)。横地地区は継体天皇の九番目の皇女・円弥媛命(まるやひめ)が住んだとされる。福井丸岡線(県道30号線)は旧北国街道(北陸道)が基になっていて交通の要所だけでなく十郷用水が隣を流れていて重要な水路にも関係している。布久漏神社はもともとあわら市北潟の福良池付近に鎮座していて福留郷と呼ばれていた。福留郷は平安時代に坪江下郷に吸収された。戦国の騒乱によって打撃をうけ福良池付近の住民は離散。離散した住民が現在の丸岡町北横地や春江町針原へ移り住んだ為、布久漏神社を祀ったと考えられます。
o_kataka
2025年5月31日


坂井郡33座のひとつ井口神社は??【式内社】本荘春日神社境内社として鎮座!
人皇二十七代継体天皇は御即位前、男大迩命と称しておられた。其の頃、當国坂中井、高向、三国及び所々に御在住しておられた。国中の水利の不便を憂い給い、當国三大河の九頭竜川・日野川・足羽川及び坂井港を開かれ国中の治水を行なわれた。其の時一ノ岡に行宮を構えることになり、この地を名付けて河口之荘本荘と呼ばれた。そして継体天皇崩御の後、この地に社殿を造営し祭神として勧請し郷中一統の総社として崇敬し奉り延喜帝の時、式内に列せられた。
o_kataka
2025年5月18日


坂井郡33座のひとつ国神神社は??【式内社】丸岡城に鎮座していた國神神社と考える!
丸岡町の中心部に鎮座する國神神社。きれいに整備され初詣や丸岡祭りなどではたくさんの人々でにぎわいます。『「延喜式」神名帳に、坂井郡の「國神神社」としてその名が残る式内社で、一二〇〇年以前の創建である。社伝によると、継体天皇と倭媛との第二の皇子である·椀子皇子が隆誕した地「磨留古乎加」に皇子の胞衣(=胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めて神明宮とされたのが起こりとされる。天正四年に、柴田勝豊(柴田勝家の甥)が「磨留古乎加」に丸岡城を築城した際に、元あった場所から現在地に移された。「磨留古乎加」は「丸岡」の地名の由来となった。歴代丸岡城主の保護と崇敬を受けて、本多家時代の丸岡城下を描いた「円陵略」「丸岡城下絵図」「正保城絵図」のうち「越前国丸岡城之絵図」(国立公文書館蔵)にも、丸岡城郭の南側に「神明社」として描かれている。もと豊原寺の院家のひとつで丸岡城下に移った「宝積院」が、神社の別当寺として隣接していたという。
o_kataka
2025年5月5日


