坂井郡33座のひとつ布久漏神社は??【式内社】継体天皇の皇女・円弥媛命由縁の地の丸岡町北横地に鎮座!
- o_kataka
- 2025年5月31日
- 読了時間: 7分

越前国に鎮座する式内社を1社づつクローズアップ!
継体天皇の影響もあり全国と比べても式内社の多い越前国。空白の時代といわれる古墳時代や継体天皇の謎が社伝に残っていることが多く越前国の式内社を調べることはその謎に迫る事でもあります!

式内社とは延喜式と呼ばれる平安時代中期にまとめられた書物にまとめられた神社。国の決まりや儀式のやり方などが記載された書物でそのすべてが現在も現存している貴重な書物(国宝)。その9,10巻には2861社の神社がまとめられている。神社名と格、簡単な場所が記載された名簿のようなものでこの9,10巻を延喜式神名帳と呼ぶ。

坂井郡とは現在の坂井市・あわら市・福井市の一部と考えられ延喜式神名帳には33社が記載されています。これは畿内を除くと突出して多く当時の坂井郡が朝廷と深く関わっていたことがわかります。また、越前が輩出した継体天皇の母・振媛が坂井郡出身という事から坂井郡にはかなり大きな豪族がいたことは間違いありません。

今回のクローズアップ式内社は
式内社 布久漏神社
鎮座地 坂井市丸岡町北横地
御祭神 品陀和氣尊、氣長足姫尊
神紋 三つ巴
境内社 住吉神社
御朱印 ー
丸岡町北横地の福井丸岡線沿いに鎮座する布久漏神社(ふくろじんじゃ)。横地地区は継体天皇の九番目の皇女・円弥媛命(まるやひめ)が住んだとされる。福井丸岡線(県道30号線)は旧北国街道(北陸道)が基になっていて交通の要所だけでなく十郷用水が隣を流れていて重要な水路にも関係している。

布久漏(ふくろう)は北横地の古名である。神社には品陀和気命(ほんだわげのみこと)【応神天皇】と気長足姫尊(おさながたらしひめのみこと)【神功皇后】をまつる。
この神事の起源については、継体天皇の皇女円弥媛(まるやひめ)の用水に対する尽力に感謝し、賽米(さいまい)を集めた事に始まる等、いくつかの伝説がある。
九月十四日の宵、村の若者十数名が褌(ふんどし)姿で公民館に集まり、太鼓のはやしに合わせ歌いながら肩を組み輪になって押し合いをする。この行事を『おたしより』という。続いて米搗(つ)きが始まる。初穂米を臼(うす)に入れ。『今搗くお米は、百姓の涙米…』などの歌にあわせて搗き上げとぎ、『セイロ』で蒸し神前に供える。残りは団子状に丸め(これを表児の米という)参詣の人に箕(み)でまく。
十五日未明、若者たちは表児の米を箕に入れ、『マスヤ、マスヤ』と呼びながら村中を廻る。各家では一升ますを持出しこれを受ける。

福井県無形民俗文化財に指定されている表児の米という祭事がある。皇女・円弥媛(まるやひめ)への坂井郡の用水構築に対する恩に報いるため十郷用水による利益を受ける村々から布久漏神社へ明治初年頃まで賽米があったため、神前に供え余りを参拝者へ手渡しをしたと伝わる。
十郷用水は平安時代に藤原氏によって整備されたと言われるがその礎は継体天皇時代にさかのぼることが分かる。
また、安永8年(1779年)に1万人を超える大一揆が起きた時、始まりはここ布久漏神社に集まった百姓数百人と言われる。
この一揆勢は十郷用水の下流域にある福島村の平木家を数回襲っている。丸岡藩の領地内での十郷用水の水利の争いも含まれていたのではと考えます。その後、一揆勢は1万人にまで膨れ上がり丸岡城の室町門を突破したと言われます。
さらに明治時代まで十郷用水の利益を受ける村々から賽米があったことを考えると十郷用水の利権を横地地区が牛耳っていたと考えるといろいろとつじつまが合います。その中で皇女・円弥媛の存在は横地地区にとっては大きな存在であり口実にもなる。平安時代の河口荘に十郷用水の守護神として祀られた十郷十社があるように坪江荘ではこの布久漏神社が大きな影響力を持ったと考えらその影響力は明治時代まで続いたと考えられる。

現在の十郷用水はパイプライン化され石畳の道となっています。
≪注目ポイント≫
・近くには継体天皇の母・振媛の話が残る高椋神社や兄にあたる椀子皇子が治めた國神神社など継体天皇に関係した神社が多く鎮座する。
・拝殿向かって左手に境内社があったが現在は更地になっている。この境内社を住吉神社と考える。
・拝殿の屋根の棟には三つ巴の神紋があるが祭事の時に出ていた幕には月のような変わった神紋が使われていた。

■福留郷(ふくろのごう)の謎??
・実はこの布久漏神社の比定社(式内社と考えられる神社)はもう一社ある。それは春江町針原地区にある八幡神社だ。入口には式内 布久漏神社の石柱が建っている。針原地区は縄文土器が発掘されるなどその歴史は古い。式内社が鎮座していたとしてもおかしくない地域でもある。共に応神天皇を祀っていることなど共通点も多い。だが情報は少なく調べることが難しい。
ここで唯一の手掛かりとして『ふくろ』の名前だ。ふくろとは横地地区の古名といわれる。実際に奈良~平安期に福留郷(ふくろのごう)の口分田を持つ百姓として福留郷戸主・海万磨・物部咋磨とある。
【この辺りの情報は角川日本地名大辞典13福井県・他郷土史などを参照しています】
ただ、ここで福留郷の場所の説明として坂井郡田宮村の西北とある。この坂井郡田宮村は現在の春江町西長田と考えられる。そう考えると、丸岡町北横地は東南、春江町針原はほぼ南で位置的に一致しない。
実はここで布久漏神社は遷座されたという不確かな情報があります。それは布久漏神社はもともと現在のあわら市北潟と浜坂の間に鎮座していたが、戦国時代の騒乱のなかで吉崎に近かったため焼失したという情報だ。春江町西長田からあわら市北潟をみるとほぼ北になる。さらに、北潟湖の北には福良池(ふくらいけ)という池が現存する。
個人的な考えですが、私はここ福良池付近を福留郷と考えます。
まずは春江町西長田からみた方角を考えたときに一番、西北に近いのは福良池付近です。さらに福留郷の戸主の名前に海万磨とあります。読み方は分かりませんが海という文字がある事を考えると海に近い福良池付近はとても関係してきます。もともと海面が高かったと言われる継体天皇の時代はこの辺りまで海だった可能性があり福良池付近は海とつながっていたと考えます。そこを治めるのは海万磨。
私の考えを分かりやすくまとめました!
・布久漏神社はもともとあわら市北潟の福良池付近に鎮座していた。
・福留郷は平安時代に坪江下郷に吸収された。
・戦国の騒乱によって打撃をうけ福良池付近の住民は離散。
・離散した住民が現在の丸岡町北横地や春江町針原へ移り住んだ為、布久漏神社を祀った。
疑問点もあります。やっぱり皇女・円弥媛の存在です。円弥媛は福良池付近に住んでいたのか?丸岡町北横地に住んでいたのか??の問題です。もともと丸岡町北横地に住んでいてあとから遷座してきた布久漏神社の社伝に加わったのか??それとも福良池付近に住んでいて神社が遷座されたときに円弥媛の話が社伝としてくっついてきたのか??これは謎です。
ただ、丸岡町北横地の社伝にはいろんな話が複雑に絡み合っているとは感じます。十郷用水の利権には皇女・円弥媛の存在は最強の看板でもありますが、藤原氏の名前が一切出てこないのは疑問に感じます。意図的に藤原氏よりも地位の高い天皇の名前を利用したと考えると納得できます。
表児の米の由来も江戸時代の百姓一揆の辺りからと考えるとつじつまが合います。「今搗くお米は、百姓の涙米…」と歌うところが庄屋や組頭を襲撃した安永の一揆で立ち上がった百姓の気持ちを歌ったものだと考えると話が分かります。
いろいろな時代のいろいろな人々の思いが合わさって独自の解釈や考えが出来た丸岡町北横地の布久漏神社は複雑な権力抗争と住民の想いが造り上げたまれに見る神社だと思います。そしてそんな話が現在まで伝わっていることが布久漏神社の奥深さだと感じます!












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