元は稲見村と呼ばれていた。養老元年(717年)平泉寺白山社の分社•沙羅宮があったと伝わる。ちなみに皿川という川の右岸に位置する。沙羅の木は仏教では聖木とされる。お釈迦様が死んだ時(入滅)2本の沙羅の木があり悲しみのあまり白い花を咲かせ、その花びらがお釈迦様を覆いつくしたと言われる。
古くは堀名村宮地とあり堀名村の一部と考える。新田宮地から現在の北宮地と改称。銀山があったと伝わる。これは堀名中清水(堀名村)地区か北宮地地区かは不明だがこの山沿いには銀山の話は多い。西に朝倉家家臣の島田将監の屋敷があったと伝わる。これは九頭龍川の向かいの保田地区を指す。不動明王の祠があります。手前に清水がありますが詳細は不明。
御祭神はホンダワケノミコト。勝山市では珍しい白山信仰とは違う神社ですが勝山市独特の神社の境内になっています。まずは界石と呼ばれる敷地の境界線を定める石。拝殿の下の土台が石垣の様に石が積み上がっていたり。河原にあるような丸い石をどこからか持って来ているのも不思議ですが勝山市には多いです。隣の布市地区は白山平泉寺の頃、市で栄えたと言われていてこの辺りも含まれていたと考えます。
ご祭神がホンダワケノミコト。記録にはないが八幡神社が合祀されたのかな?新保堂があったと伝わる。隣の松ヶ崎村には松崎堂があったと言われこの辺りにはお堂が多くあった事がわかる。大永年間(1521-1528年)は現在の大野市にある曹洞宗洞雲寺領となっている。つまりこの沢山のお 堂は白山平泉寺ではなく曹洞宗永平寺の影響が強かった可能性がある。
ご祭神はアメノオシホミミ。西に銀山あり。この辺りの神社には良くある話。この銀山は慶長年間に発見されたといわれ豊臣秀吉が鉱山開発に力を入れていたと言われる。文化12年(1813年)勝山の商人が試し堀を開始。村人達も鉱山稼ぎに加わった。のちに勝山藩も銅山奉行を置き経営を試みたが大きな成果は出なかった。豊臣秀吉の時代に結構、採掘されたとも言われる。勝山藩は小さな藩で財政が苦しくいろいろな事を試している事がわかる。
この辺りにはいくつかの神社庁に登録されていない神社があります。記録ではこの細野白山神社は5社以上の神社が合祀されていている事になり他の神社は書類上はない事になっています。天正2年の越前一向一揆の指導者で壇ノ城に籠った細野入道観兵衛は当地区の人と言われている。