御祭神はオオナムチとなっていますが、スクナヒコナと共に人畜の諸病を治す薬を定めたとあり元々薬師如来も祀っていた可能性があります。福井ではスクナヒコナを祀り薬師如来を拝む事が多いが明治時代の神仏分離の際に禁止された為、それぞれの地区でそれぞれの対応を行った。その流れだと思います。また境内社の蔵王宮には片足で天邪鬼を抑えつけた悪魔降伏の神として奈良吉野の金峰山の蔵王権現を祀っている。どちらかと言うと仏教色の濃い神社だなぁと思います。
御祭神はイザナギ。境内社は磯崎神社。奈良興福寺の荘園•坪江下郷の一部。社叢林として有名な境内でスタジイ、ケヤキ、センダンなど立派な木が多くあるいわゆる鎮守の森として地元では有名。北潟湖南方湖があり古くは日本海航海の際、潮待ち、風除けなどで湖の奥に位置する赤尾地区を避難港として利用された。
御祭神はアメノコヤネ、オオヒルメノムチ、クニノトコタチ。伊井地区と言えば伊井大工と呼ばれる職人が多くその実力は志比大工(永平寺地区の宮大工)に引けをとらないと言われ神社やお寺の彫刻や瓦などが有名です。この神社の拝殿や本殿の壁など彫刻が素晴らしい!これを見て思ったのがあわら市笹岡の八幡神社の彫刻に似ている。同じ伊井大工の方が造られたのかなと推測。隣の矢地地区には太子堂があるので職人の一団がいた事を裏付ける。
文治元年(1352年)山城国石清水八幡宮より勧請。御神体は八幡太郎義家公(源義家)と伝わる。3万石を領していた隣の番田村の堀江石見守がこの八幡神社を尊崇していたが永禄10年(1567年)溝江河内守との戦いに敗れ落城。いわゆる朝倉義景に対して反乱を起こした堀江氏が溝江氏などに鎮圧されたお話。旧参道には貞享5年(1688年)の両部鳥居があります。天皇陛下に関する石碑が多い。
その昔の稲越地区は北と南に分かれていてこの八幡神社は南稲越地区。以前は金津山本宮寺がありその名残りか石像が多く残る。旧金津地区にある竜沢寺の寺領を免除されていたが朝倉家の家臣•溝江氏に押さえられた。江戸期は十郷用水の水量を十分に確保できず水争いが勃発した。
北稲越地区の氏神として農耕商業守護の神として崇敬される。室町時代は一時期、竜澤寺(あわら市御簾尾)の寺領となっている。通常、稲荷神社はウカノミタマ(お稲荷さん)ですがまれに保食神(うけもちのかみ)の場合がありここの神社は保食神を祀る。古事記では食物を生み出す神として登場。月の神ツクヨミに殺されそれが原因で太陽神アマテラスと仲が悪くなり太陽と月は同じ地上に現れないとされます。
加賀の鶴来にある白山比咩神社の御祭神を勧請。明治11年、明治天皇北陸御巡幸の由緒を以て明治天皇を昭和29年に合祀。御祭神に明治天皇と、社伝や郷土史によって違うんですがククリヒメ、イザナミが合祀されています。ひとつ思うのはここでは福井県の白山平泉寺ではなく石川県の白山比咩神社からの勧請となっていること。この牛ノ谷地区は石川県と福井県の県境。白山信仰の中の勢力図を感じる内容です。神額は岡田啓介の書。
御祭神はクニノトコタチ(國常立尊)。根源神と言われ古事記では最初の神とされる。中世にこの地域に存在した坪江下郷の牧村にあった牛馬の飼育をしていた地域•牛山ケ原が地名の由来と言われる。源平盛衰記には寿永2年(1183年)平家が北国に源氏を攻めた際、先陣 は安宅に着きその列はこの牛山ケ原まで続いたとあります。
鎌倉期の記録に後山一族が東西を支配しているとある。天正3年には坪江上郷は後山、中山、鳥越の3氏に配分されていた。後山地区の名前の由来は人が先か地名が先かはわかりませんが、かなり古くから後山一族の影響を強く受けた地域だった事は間違いなさそうです。
御祭神はカグツチ。元の本尊は神像であったが破損がひどいため神仏混淆の幕末に今の仏像になる。中央に地蔵菩薩の立像。左右に阿弥陀如来、薬師如来の坐像が安置。
八幡神社、春日神社、白山神社を明治5年に統合。朝倉家家臣•武曽勝融(かつあさ)の居城の瓜生城がこの神社の裏にあるみたいです。武曽勝融は朝倉貞景、孝景、義景の朝倉3代に仕え一向一揆との戦いに数多く出陣した名将。1564年に死去。これは朝倉家滅亡のおよそ10年前になります。
旧•金津町新用地区。溝江館跡の近くにあり溝江郷の一部。この地区にある西徳寺は本願寺派•超勝寺の末寺。溝江氏と一向一揆の戦いがこの辺りで行われたのかなーと考えるとなんとも言えない。朝倉始末記には溝江氏ら30人余りが自害し、女性らは土居を乗り越え堀に飛び込んだが、おいはぎにあい叩き殺される有様は目も当てられない。とある。※わかりやすく現在の言葉で記載※
芦原温泉の薬師三尊のひとつ。残り二尊はお堂ですがここは神社本庁に登録されている神社。少彦名命を祀っている。少彦名命と薬師如来は薬や医学の神として神仏習合の中で同一視される事が多い。地名は田中垣内地区と中垣内地区からなり両地名を合わせ田中々となる。現在は温泉3丁目。
天正4年(1576年)柴田勝家の高田派専修寺門家12カ村のひとつ。結城秀康の時代には多賀谷三経の城下集落•柿原郷の一部。この地区には多賀谷光経の墓所•菩提寺があり関係性は深い。
御祭神は応神天皇、神功皇后、比売神。あわら市では有名な嫁おどし谷のお話が伝わる地域。この場所で嫁をおどしたといわれる。蓮如道の石碑もありこの場所が交通の要所であることも分かります。あわら市の温泉街にある足湯にはこの嫁おどし谷の話を越前瓦で表現したものや説明があります。
往古は毘沙門天を祀る祠でその礎石が残る。鎌谷村毘沙門と呼び、炭焼きが盛んで春日神社と境内社の火神神社の祭礼の炭を供える。付近には須恵器の窯跡が発見されていてこれが地名の由来になる。ちなみにそれ以前は剱岳村と呼ばれた。これは鎌谷地区の東側にある剱ヶ岳によるものと考える。
福井県神社庁に登録されているが確認したところあわら市上番の神明神社境内にある氷川神社と推測。
あわら市上番の神明神社境内にあるこの石祠と推測。神社庁に登録されていてGoogleマップでは境内内のこの位置にある。
文明16年(1484年)の記録で朝倉氏と甲斐氏•一向一揆との戦いでハツワカノ村が焼き払われたり田畑が荒らされたりと被害が大きい事が伝わる。このハツワカノ村はこの地区の阿弥陀寺の山号•初岡山(ハツオカノヤマ)であることから上番村の前身であったと考える。上番地区は朝倉氏と甲斐氏や一向一揆の戦いや堀江の乱などの戦いの主戦場になる事が多かった。先人の苦労が伝わります。
上番村の枝村として新田村が出来る。御神体からは江戸初期には創立されたと推測される。河口荘の中心地であったあわら市中番、上番、下番地区の神社だけあって石仏像が多い。父神とされる本荘春日神社の影響は大きい。
室町時代は河口荘新郷振上村とあり現在の根上り地区と考えられる。上番村の枝村。越前狛 犬と呼ばれる笏谷石を使った狛犬があわら市の市文化財に登録。現物は社殿の中かな?合祀されているのか八幡神社の神紋を屋根に使っていて神明神社の文字もなくかなり古い雰囲気が感じられます。鳥居が小さい。
上番村の枝村、仏徳寺村。江戸時代にはこの仏徳寺村と竹田川を挟んだ番田村の間には渡船があり近辺三十の村で運営維持されていた。それ以外の村は三文を払った。のちに江戸後期には40の村に増える。
御祭神はイザナミ。河口荘関郷に含まれ「かうらい田」と呼ばれているのでもともとは田んぼが広がっていたと考える。江戸期に入ると伊井村の出村として河原井手村が出来てくる。荘園時代、河口荘関郷は現在の大関小学校の校区辺りかなと思ったがそこから竹田川まで続くあわら市河原井手や稲越までが関郷で竹田川から三国湊へ稲などを送ったとある。竹田川が荘園時代から水運として利用されていた事に川がどれだけ重宝されていたかがわかる。
鳥居には享保19年(1734年)毘沙門天とあり、後年に八幡神社祭神応神天皇を祀ったと考える。建武2年(1335年)河口荘へ乱入し狼藉をはたらいた賊の中に坪江上郷北村の住人•越前房と名がある。江戸時代に入ると児島一族が村型三役を勤める。児島氏は朝倉氏の家臣で朝倉家滅亡後、当村に定着。児島氏本家はその後も代々幕府の公職を務めた。
天神宮とあり菅原道真を祀る。北潟地区には八雲神社もあるが八雲神社は天王地区と呼ばれ牛頭天王を祀っていた。こちらの松ヶ崎神社も歴史は古く大宝2年(702年)創建と伝わる。
北潟地区は湖や海がある為かどちらの神社にもミヅハノメが祀られている。福井県では馴染み深い神様で越前和紙を伝えた女神としても有名。
西に隣接する角屋村にかつて専光寺という大寺院が存在していたことから本堂村となる。坂井郡内に本堂村が2つあり当地が北に位置したことにより北本堂となる。蓮如の越前布教の時に天台宗から転宗した真宗大谷派寂静寺があり天台宗の時の十一面観音がこの神明神社に安置されている。
清滝地区には神社庁に登録無し。この神社は三国町の滝谷寺関係のお堂があったとされる。仏教色が強い為、神社庁への登録がされていない可能性がある。薬師如来を祀る神社は基本的に存在しない。薬師如来は仏教であり、神社は日本神道なので日本の神々を祀る神社に薬師如来は祀られることはない。しかし、日本独特の神仏習合の中では日本神道の少彦名命(スクナヒコナ)は薬師如来を仮の姿として人々の前に現れるという考えをする。複雑怪奇な神仏習合の考え。
蔵王関連の神社は山岳信仰と深く繋がっているので山の中にあり、神社庁に登録もされていないので結構、地域の方々しか知らない場合が多いです。この蔵王宮もほとんどの地図に乗ってないのでGoogleマップに申請しました。この清滝地区の山には神社や祠などが多くあるのでその昔の様子が想像できます。もともとお寺があったと伝わりますが情報はありません。
御祭神は応神天皇。害獣避けの柵を抜け山の中を進むと八幡神社がある。神社庁に登録されている。昔は剣岳村に属していた。この剣岳はあまり知られていないが一向一揆の話がいくつかある。現在は刈安山の方が知られている。拝殿の彫刻は伊井大工の作りに似ている。江戸期には後山組に属している。この後山組に属する17の村はいずれも神社の造りが似ていて滝の瓦、伊井の大工など職人が多くいた地域と考える。
ホンダワケノミコトを祀る。坪江下郷の二面方に属する。中世は国景。隣り村の井江葭村(いえよりむら)から出る清水を用水として国影村も利用したがこの水をめぐってふたつの村はたびたび争論になる。
元は第一鳥居の位置に社殿があったが明治40年に高所の現在地に遷座した。神社横に県指定史跡•椚古墳がある。未の方向(南南西)には椚山城跡がある。古くから力のある豪族などがいた事がわかる。
奈良興福寺の荘園•河口庄荒居郷。藤原氏の子孫•斉藤伊輔は天永元年(1110年)に河口庄十郷に春日神社を勧請したのが当神社の建立となる。
中世の河口荘新郷の公文(荘官)の給田が当地に存在していたことが名前の由来に。公文村が開村の際に白山神社を建立。公文地区は隣の宮前地区と道を挟 んであり元々は合わせて新郷の中心地である事がわかります。宮前地区の御前神社には白山神社がもともと合祀されていた記録もあります。
御祭神はアメノコヤネ。権世川の上流の谷に位置する。溜池などもあり権世川の水流は少なく下流の前谷村との争論が絶えなかった。薪•炭を収入原に焼き畑農業も盛んに行われた。この辺りもしっかり藤原氏の影響を受けた春日神社。あわら市らしい神社でもあります。
御祭神はアマテラス。立派な中山鳥居。大正6年建立。地元の方かな?27代目と彫られている。権世川最奥地。加賀境の風谷峠への登り口。戦国時代は一向一揆がこの峠を通り加賀と越前を行ききした。江戸期は福井藩の口留番所が置かれて交通の取り締まりが行われた。加賀への山に立ち入らない事などを約束する請書が残る。
御祭神はホンダワケ。もともとは蓮浦村に属し北陸街道の休茶屋があった。蓮浦村は元禄年間、困窮を極め茶屋の人々に田畑や山林を売り茶屋は石高50石と山10ヶ所を所有するようになる。弘化4年(1848年)蓮浦村からの独立を金津奉行に認められ坂口村と称する。金津地区には蓮如道の碑が多い。蓮如道は北陸街道と同じなので金津が宿場町として栄え古くから交通の要所だったのがわかる。
社額は海軍大将•岡田啓介の書。古くは曹洞宗龍澤寺領。戦国時代は熊坂専修寺の影響で高田派。その為、朝倉義景や柴田勝家とは手を結んだが一向一揆(本願寺派)とは激しく対立した地域。
社伝によれば延喜 式神名帳に載る保曽呂伎神社であり細呂木の総社であった。和銅7年(714年)僧•泰澄がアメノコヤネの神像を彫刻してここに祀る。春日社あり別当神宮寺、真言宗とある。この辺りの春日神社は式内社•保曽呂伎神社を伝える社伝がいくつかある。
人皇五十七代•陽成天皇の時代、南都興福寺の焼失について大和国上郡大神神社の神が重義地区の民の夢枕にたたれたので元慶元年(877年)大神神社の神をこの地に勧請し一社を創立。この社伝にはいろいろズレがあるように感じます。南都焼討は1181年に平清盛によって行われている時代のズレ。大神神社の御祭神はオオモノヌシ、この神社の御祭神はオオヒルメ、クニノサヅチ、ホンダワケと祀られている神様のズレ。詳細は不明。
神明神社の境外社として秋葉大権現を祀る。神仏習合では火防(ひよけ)、火伏せの神として信仰された。その昔は、隣の番田地区と重義地区は番田重吉と呼ばれまとめて考えられている。これにはふたつの地域の間には朝倉家の家臣•堀江氏の館があったためと推測。番田地区には水の神を祀る金竜神社、重義地区には火の神を祀る秋葉神社を祀っていたり、地域内に10体ほどのお地蔵様があるのも興味深いです。ちなみに瓦は旧金津地区で造られた滝の瓦。
源義仲が越中砺波山で平家の軍と戦い、逃げる敵を追って京都に上る途中、当社に立ち寄り戦勝祈願をしたと伝わる。砺波山での戦いは倶利伽羅峠の戦いを指していると考えます。
御祭神はスサノオ。荘園時代には馬を飼育する豪族がいたとされ波松地区は城の港と言われる。スサノオは牛頭天王と深い関係があり近くの北潟地区には牛頭天王と関係の深い安楽寺がある。ともに平家との関係があるのでこの馬を飼育していた豪族は平家と関係あったのではと推測。第二次世界大戦後は梨園が盛んになる。
御祭神はスサノオ。城•城新田地区ともに氷川神社を祀る。海岸線の地引網の権利を持っていたとされる。境内社の中には鯛を抱えた恵比寿様が祀られているのもこの事に関係すると推測。もとは新家村。江戸期の城村に木材などの租税が増えた際に村にある天池の開発を願い出て、城村の村民と加賀浪人が住み始め集落となったのが始まりと伝わる。明治に入り城新田村に改称。
あわら市北疋田地区と連なる地区。北国荘園には地主の名前をつけた名田が多くありそのまま村名になっている。その為次郎の邸宅があったと伝わる。戦国時代には朝倉家臣•深町氏の館として記録が残るので深町氏関係の館と考える。
春日社に長く安置された薬師如来座像を明治30年にお堂を建てて遷座。教授院とする。神仏分離令の流れでよくあるパターン。薬師如来を村社から外し薬師堂にする。浄土真宗高田派の大坊があり織田信長の軍に焼き討ちにされたと伝承がある。
清王地区の新しい住宅地にある神社。神社庁に登録されていない小さな神社。神社の名前にひらがなを使っているので昭和時代に創建された可能性あり。御祭神は不明。日の出の名称からアマテラスと推測。
河口荘の十郷十社のひとつ細呂宣郷に含まれる。永禄10年、加賀一向一揆と越前朝倉勢が北国街道の要地であったここ高塚地区で激突し合戦が行われた。石段は落ち葉や茂みで登りづらく境内の石祠は野生動物のしわざかな?荒れている感じがします。裏の竹藪からも境内に入れます。
庚申堂、雨請堂、神明神社が境内にありなかなか神秘的な雰囲気。水が流れていて巨木が多く奥に不動明王が祀られている。平安時代は興福寺荘園河口荘細呂宣郷滝平谷村。稲作が盛んで江戸期には水田増加に伴い十の溜池を作り雨請堂に不動明王を祀り豊作を祈った。江戸末期には越前瓦発祥の地として栄え昭和2年には青ノ木、宮谷を含め24の瓦工場があった。
御祭神はホンダワケノミコト、イザナミ、曽保登神。この曽保登神は春江地区にもいくつか見られるが継体天皇の事かな?ヲホドを読むと推測。田中地区と中地区が合わさり田中々となる。古くはこの辺りの総社とされていて現在のあわら温泉街以前は田中々地区が中心となっていた事がわかる。中世館跡有り。境内社に加茂神社と住吉神社が鎮座し、薬師如来が祀られている。
継体天皇が竹田川を開き治水工事を行なっていた時、この地に舟を駐めて行った。治水工事成功後、住人の孫四郎、喜助にこの地を任せる。継体天皇崩御後、2人は神殿を造営。住所を谷畠天皇原一番地とする。明治に入り現在地に移転。常盤神社とする。
宝亀年間(770-780年)南都より還座。永禄年間(1558-1570年)あわら市下番に拠点を置いた堀江氏が一向一揆に寝返り朝倉方から魚住•山崎軍が攻めてきた際、この神社は被害にあい御神体を残し全て焼失。その後小さな祠を建てる。堀江•一向一揆勢と朝倉方魚住•山崎勢の戦いが行われた地区のひとつ。
小高い山にある神社。この辺りを青森といい富津地区の人が開拓、山を切り開いた。山仕事の安全を祈りアオモリノカミサマの祠を建てる。昭和に入り氏神として大山神社を創建。
御祭神はアメノコヤネ。河口庄に含まれていて本荘春日神社と近い地域。結構凝った神社で社額の龍の彫り物や手水舎の松の彫り。境内社の稲荷神社の屋根飾りなど立派な神社です。百姓照明萬邦協和と横の入り口に記載されていました。これは元号•昭和の由来となった言葉。全ての民が徳を積む事で世界は平和になるという儒教の言葉。
御祭神はイザナギ。長和4年(1015年)村の水神として崇敬し勧請。通称•おみしんさんと呼ばれる。あわら市中番地区は荘園時代の中心地で近くには北国荘園の中心•父神•春日神社があり中番、上番、下番に宮前地区も入れると式内社2に神社も10以上あり村そのものが大きな宗教都市となっている。厳島神社は境外社。
創建社伝等不詳。中番の春日神社の参道を鳥居を超えてまっすぐと竹藪を抜けると左側にある神社。右手は興源寺。春日神社の横手にも竜雲寺がありこの地域が宗教都市だったことが感じられます。この神社についての詳しい情報はないですが古墳のような円形の形が気になります。
御祭神はイチキシマヒメ。明治元年に再建。竹田川を挟んで対岸の宮前村への船渡しがあった。龍宮神社と興味深い名称ですが古来から争いの多い地域でこれといった記録•社伝は残っていません。ただ、イチキシマヒメを祀る事からこの辺りに伝わる水神様と推測できます。
八幡神社境内に鎮座していた貴布称神社を明治40年に本社に合祀し貴船八幡神社と改称した。近くに地蔵堂あります。
荒居の郷山荒居に属して室町奈良の春日社兼興福寺の庄園であり春日明神を勧請。この地区は石川県との県境の辺り。興福寺の荘園はどこまでも続きます。