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坂井郡33座のひとつ井口神社は??【式内社】本荘春日神社境内社として鎮座!

更新日:20 時間前


坂井郡33座のひとつ井口神社は??【式内社】本荘春日神社境内社として鎮座!

 越前国に鎮座する式内社を1社づつクローズアップ!

 継体天皇の影響もあり全国と比べても式内社の多い越前国。空白の時代といわれる古墳時代や継体天皇の謎が社伝に残っていることが多く越前国の式内社を調べることはその謎に迫る事でもあります!

式内社とは??

 式内社とは延喜式と呼ばれる平安時代中期にまとめられた書物にまとめられた神社。国の決まりや儀式のやり方などが記載された書物でそのすべてが現在も現存している貴重な書物(国宝)。その9,10巻には2861社の神社がまとめられている。神社名と格、簡単な場所が記載された名簿のようなものでこの9,10巻を延喜式神名帳と呼ぶ。

越前国坂井郡33座【式内社】

坂井郡とは現在の坂井市・あわら市・福井市の一部と考えられ延喜式神名帳には33社が記載されています。これは畿内を除くと突出して多く当時の坂井郡が朝廷と深く関わっていたことがわかります。また、越前が輩出した継体天皇の母・振媛が坂井郡出身という事から坂井郡にはかなり大きな豪族がいたことは間違いありません。


坂井郡33座【式内社】井口神社石柱

今回のクローズアップ式内社は


式内社 井口神社

鎮座地 あわら市中番下番入会地

御祭神 男大迩命(彦太神)

神紋  下り藤(本荘春日神社)

境内社 井口神社

御朱印 あり


 本荘春日神社の境内にある井口神社。ここ本荘春日神社のある場所はもともと井口神社でありそれ以前は継体天皇が住んでいたとも言われている。坂井郡の中心地ともいえる場所で本荘春日神社はこの辺りの春日神社の父神とされる。


式内社・井口神社の由緒之碑(本荘春日神社境内)

由緒之碑

総社 郷社 春日神社

相殿 式内 井口神社


相殿式内井口神社 由緒

一、祭神 男大迩命「オオトノノミコト」

人皇二十七代継体天皇は御即位前、男大迩命と称しておられた。其の頃、當国坂中井、高向、三国及び所々に御在住しておられた。国中の水利の不便を憂い給い、當国三大河の九頭竜川・日野川・足羽川及び坂井港を開かれ国中の治水を行なわれた。其の時一ノ岡に行宮を構えることになり、この地を名付けて河口之荘本荘と呼ばれた。そして継体天皇崩御の後、この地に社殿を造営し祭神として勧請し郷中一統の総社として崇敬し奉り延喜帝の時、式内に列せられた。


総社郷社春日神社 由緒

、祭神 武甕槌命「タケミカヅチノミコト」

経津主命「フツヌシノミコト」

天児屋根命「アマツコヤネノミコト」

比咩命「ヒメミコト」

人皇六十六代一條天皇の御宇、鎮守府将軍藤原利仁四代の苗裔、當国の押領使従五位上斉藤民部少輔伊傳の勧請に係れり社記に曰く伊傳其の元祖春日明神に信仰厚く曽て當荘の住人徳丸の男美佐崎なる者を使いとして神供百石の料を以って南都の春日神社に献じ本国に其の分霊を勧請せんと欲す。寛弘八年亥年二月、今より八百八十九年前、上奏し神殿を設け同十月朝命を以って遷宮あり其の供奉として別当には南都の惣大連公文伊豫守藤原国等々社家四百八十人神輿陪従して来たれり其の時荘官二十四家を置き社領六百町を寄付せられたり、後 伊豫守国等往時、継体天皇三大河を開き耕地と成し給えども我が神領の地未だ水田に非ず依って国等水利を得んと欲し春日明神に祈願すること十七日 奇なるかな満願の日薄暮のこの神庭に白き鹿来たりて一夜林の下に止まれり其の夜国等知らず神容甚だ威厳にして告げて曰く 今汝撫民の志を以って祈誓する処あり朕之を示さん。九頭竜川の上流に行きて尋ねべし必ず水の得るの奇験あらん自ら悟るべしと、夢たちまち醒めたれば拝謝してすでに階を降りる。白鹿北東に向かって立ち去れり国等即日数里の川上に到るところ一つは八尺の幣を咥え一つは六尺の榑を咥え此に於いて神感の諭示する所なるを覚り白鹿の到るところに従い行き水源に到れば白鹿は水中赤色の岩上に起立し茲に鳴くこと三声依って其の地を鳴鹿山鹿と云う白鹿また乾の方向を指して行く国等これに従うこと数里白鹿左右に伏す今其の地を鹿伏と云うこの所にて用水左右に分かる。また行くこと二里余り白鹿二物を捨てて消え失せり、今本荘村藤沢の地内鹿塚という小塚あり。故に国等直ちに家に帰りこの顛末を社家及び郡民に謀りて白鹿の通りし跡に就いて幣を標となし河川を開き水を通して田を拓きたれば居民日を追って繁栄せり今に至る迄この用水の恩恵に浴す。本荘春日社は十郷の総社にして十社あり本荘郷、新郷郷、大味郷、溝江郷、細呂木郷、兵庫郷、大己郷、関郷、新荘郷あり、大守古へより所々に春日明神を祀れる所以なり信長豊臣氏の時も国等の開拓の旧功に拠って社司大連に用水の役儀勤務を命ぜられ黒印を賜い其の他領主代々判物等を賜わり今尚大連家に所蔵せり本社の郷社に列せられ明治六年一月なり以上国等の子孫大連氏の家譜及び社記に拠って明治三十二年四月下番藤野市九郎誌す

本荘春日神社境内にある由緒之碑より


式内社・井口神社は本荘春日神社拝殿向かって右手に鎮座

郷社 春日神社石柱の側面には式内 井口神社の文字

≪注目ポイント≫


継体天皇の行宮が置かれたのが井口神社の始まりとされる。行宮(あんぐう)とは仮宮とされる一時的な住まいとされる。ここ井口神社の場所は社伝の由緒に記載されている継体天皇が住んだとされる坂中井(坂井市春江町)、高向(坂井市丸岡町)、三国(坂井市三国町)の3つの場所に近い。


石柱には郷社 春日神社の側面に井口神社とある。平安時代に入ると藤原氏の影響が強くなり春日神社が造営され河口荘の中心地とされる。

本荘春日神社拝殿には井口神社の社額もあります。

このことは若き継体天皇がこの地の治水を行い豊かな場所にしたことで米などの収穫量が多かったことが藤原氏にも引き継がれたと考えられる。荘園時代は本荘地区だけで河口荘の7割以上の年貢を生産した事もあり河口荘の中心地として栄えたことが考えられる。


・井口神社の名前や継体天皇の話が現在にも残る事は藤原氏や地域の住民から継体天皇が慕われ感謝されていたことが考えられる。


・竹田川左岸に位置するため、竹田川を使った水運を使い三国港へ物資を運んだと考えられる。


井口神社は本荘春日神社と改称されてからも遷座された話はなく1500年近くここに鎮座していると考えられる。

 竹田川沿いに鎮座し兵庫川・九頭竜川にも近いこの本荘地区を一大農産地へと変えた継体天皇の功績はとてつもない。そしてその基盤を受け継いだ藤原氏、堀江氏などが安定した権力を握り続けられた理由にもなる。さらに井口は河口の意味もあることから継体天皇の時代はここ井口神社は竹田川を使った水運の巨大拠点だったと考えられます。田園風景が広がるあわら市の本荘地区を古くから守りし守護神として井口神社は今もここ本荘地区に鎮座しています!


注意:継体天皇が越前にいた時は男大迩皇子と呼ばれていましたが、ここでは継体天皇で統一しました。


Komentarze


​坂井町、丸岡町、三国町、春江町の4つの地域が集まった坂井市。

​福井駅前の福井城を中心とした城下町。一乗谷周辺の東郷地区。足羽など。

​あわら温泉のある地域。石川県との県境にも辺り歴史的に見ても面白い地域。

​福井県の内陸部の山間部。白山信仰の中心地としてその遺構が多い地域。

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福井県坂井市に住む郷土歴史・福井県が大好きな管理人のOkazakiの勝手気ままなサイトです。特に神社、織田信長の天正年間、新田義貞の南北朝時代が大好きです。
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