木曽義仲本陣跡に鎮座する大塩八幡宮は罪の疑いを晴らす神社不死鳥の如く蘇る越前国
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木曽義仲本陣跡に鎮座する大塩八幡宮は罪の疑いを晴らす神社

更新日:2023年3月25日


 越前市に鎮座する大塩八幡宮のあるこの山はかつて3万以上の木曽義仲軍が本陣を構えた地。その後もこの地は幾度となく戦乱に巻き込まれた地域。越前朝倉家に大切にされ江戸時代には越前八幡四社に数えられるなど由緒ある神社。


  1. 大塩八幡宮の由緒・無実の罪を晴らす神社

  2. 木曽義仲の3万を超える大軍がここに構える

  3. 境内社に伝わる逸話と推測

 

1.大塩八幡宮の由緒・無実の罪を晴らす神社


 大塩八幡宮のしおりを元に建立の歴史をわかりやすく見てみると、平安初期の仁和3年(889年)朝廷に仕えた紀中納言友仲朝臣(きのちゅうなごんともなかあそん)という方が仲間の妬みにより越前国府中の南へ流罪となった。そこで無実の罪を晴らさんとして、この社に祈願し榊を桜井峯(背後の峯)に植え、麓に祈願所を設けて、石清水八幡宮(京都の守護神)の神様に日夜お願いした。祈り続けて間もなく神様へのお祈りの甲斐あって罪を許され朝廷に戻ることになります。無事に戻った紀中納言友仲朝臣は現在の大塩八幡宮の地に京より職人を派遣、資材を集め大塩八幡宮を造営された。とあります。その為、この神社は無実の罪や疑いを受けたものは、この御祭神に祈ることで速やかに災難から逃れられる。ご神徳があるといわれています。


 まずは紀中納言友仲朝臣という方。紀長谷雄(きのはせお)と呼ばれあの菅原道真と共に勉学をするなどかなりの知性があふれた人物で当時、勢力を広げつつある藤原北家もこの紀長谷雄には一目置いたといわれています。遣唐使として中国で勉学を学んだ方でもあり菅原道真と並ぶ天才といわれていました。そんな紀長谷雄が若い時、賢すぎるゆえに仲間から妬みをかい師匠の良香という方との仲が疎遠になったとあります。もしかするとこのことが京都を追い出され越前に流されたということと関係があるのかもしれません。


 また、紀長谷雄がこの地に流されたときにすでに社があったことが記されていてこれは境内社で式内社でもある天八百萬比咩神社(あめのやおよろずひめじんじゃ)と考えられる。この天八百萬比咩神社イザナミを祀っていることから白山信仰の流れを汲む神社でありこの山も泰澄と関係がありそうな山だと思います。


これらを考えてもかなり古い時代からこの大塩八幡宮のあるこの山は特別な地だったことがわかります。

 

2、木曽義仲の3万を超える大軍がここに構える


 木曽義仲が寿永2年(1183年)に加賀国篠原で平家軍と激突し大勝を治め越前に入りこの大塩八幡宮のあるこの地に本陣を構えました。その数は3~5万と言われ府中(越前市中心部)にまでその兵は広がり陣を構えたといわれています。では、なぜ木曽義仲はこの地に陣を構えたのでしょうか?


境内には手書きでその当時の陣立てや説明が細かく記載されている。

 

 推測ではありますが、一度この先の燧ヶ城(ひうちがじょう)で負けている木曽義仲が用心の為、この地で態勢を立て直したのではと考えます。木曽義仲はスムーズに北国を治めたと思われている方も多いと思いますが、木曽義仲は一度、この府中まで来てこの先の燧ケ城(ひうちがじょう)にて平家側に敗北を期しています。その為、この大塩八幡宮で陣をしっかり立て直し確実に進軍することを考えた可能性があります。実際、木曽義仲がこの大塩八幡宮を出て比叡山延暦寺までとても速いスピードで突き進んだと考えられます。つまり、この地では一時的な立て直しを行ったことで比叡山延暦寺への道を速いスピードで進んでいけたんだと思います。

 

3、境内社に伝わる逸話と推測

​境内社

御祭神

寿翁神社

大山津見神・伊邪那尊・須佐之男尊・少名彦神・大己貴神・大綿津見神

源嫡神社(東照宮)

徳川家康

高岡神社(式内社)

スサノオ

天八百萬比咩神社(式内社)

イザナミ

高良神社

武内宿禰

天国津彦・天国津比咩神社(式内社)

イザナミ、イザナギ

清務霊社

​舎人親王


 


 大塩八幡宮にはたくさんの境内社があります。その中でまずは髙良神社!ご祭神を武内宿禰(たけうちのすくね)八幡神社とセットで祀られることが多い武内宿禰は五代にわたり天皇を支えた豪族であり忠臣。神功皇后が三韓征伐を行ったときは軍を率いた人物。八幡大菩薩として祀られる応神天皇を支えた人物でもあり八幡神社の境内社として祀られることが多い。三国神社内の八幡神社には武内宿禰の彫刻が彫られている。



 もうひとつ気になるのが寿翁神社(すおうじんじゃ)。御祭神はオオヤマツミやイザナギ、スサノオなどを祀る。


 この神社には大永の頃(1521年)越前10代領主・朝倉孝景の息女11歳の時、疫病にかかりその悩みをこの社でお参りし祈祷した御守りを持つようにしたところ快方に向かったと伝わる。この朝倉孝景は朝倉家最後の当主・朝倉義景の父にあたる。記録では娘の表記などはない。朝倉孝景はもう一人いて7代目にも孝景はいるが年代が違う。推測ですが10代当主の朝倉孝景の娘と考えその娘はその後、亡くなったのではないかと考えます。長く生存していれば朝倉義景の兄弟になりますので何らかの記録があってもいいと推測します。

 越前朝倉家との繋がりは深く、一の鳥居は明応4年(1496年)朝倉貞景、二の鳥居は天文21年(1552年)朝倉義景が寄進したといわれています。

 

 このように越前朝倉家との繋がりも深く、江戸期には社領が認められた越前八幡四社にも数えられた大塩八幡宮。越前国の歴史に深くかかわりを持ちその境内は木曽義仲や朝倉義景が生きた時代がそのまま残ったような雰囲気もあり再度、参拝したいと強く思いました。


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