朝倉の名を冠する山にある城『朝倉山城』朝倉景連不死鳥の如く蘇る越前国
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朝倉の名を冠する山にある城『朝倉山城』朝倉景連

福井市深坂町にある朝倉山。越前海岸に近く棗庄(なつめのしょう)の一部でその山の頂上には朝倉山城があったといわれている。麓には日吉神社がありその横に山頂への登山道が整備されている。この城の城主は朝倉景連(あさくらかげつら)。その名前からもわかるよう越前朝倉家一門のひとりで奉行衆のひとりです。

 

福井市浜別所町の朝倉山のふもとにある日吉神社。日吉神社に向かって左手に朝倉山の登山口があり2~3台ほどの駐車スペースがある。

 
  • 奉行衆・朝倉景連とは??

  • 朝倉山城の役目とは??

  • 朝倉家滅亡後の朝倉山城は?

 

奉行衆・朝倉景連とは??


永禄4年(1561年)4月に現在の越前海岸沿いで盛大な犬追物の興行が行われました。この犬追物はただたんに犬を弓で打つ試合のようなものではなく朝倉軍1万人が集まったといわれるいわゆる軍事パレードに近いものだったといわれています。その盛大さで見物人は数知れず、朝倉義景の威勢を示す華やかな興行でした。また、この朝倉軍の盛大さを見た一向一揆は越前での争いを避け三河での争いに力を向けたともいわれています。


この犬追物の興行を行ったのが朝倉景連と言われています。またこの朝倉景連もその派手な衣装から朝倉家の当主・義景と見間違えるかのようだったともいわれています。この犬追物を大成功させ自分の存在感もしっかりアピールした朝倉景連はその名前を越前国中に広めました。


なぜ、この時期に朝倉家はこんな盛大な犬追物を行ったのか?

これにはいろいろな説がありますが弘治元年(1555年)に朝倉家を軍事的に支えた朝倉教景(宗滴)が死没したことで朝倉義景はみずからの武威を国内外にアピールする必要があったと考えます。そんな大切な犬追物を任せられた朝倉景連。朝倉義景の信頼と朝倉家の中での立ち位置が想像できます。


 

朝倉山登り口には大きな石で案内されています。登山道は山頂まで近いけどハード、時間がかかるけど緩やかな登山道のふたつの案内板がありました!

 

朝倉山城の役目とは??


朝倉山のある棗庄(なつめのしょう)は一乗谷から見ると北西に位置し朝倉義景の時代には比較的、安定した地域だったと考えます。朝倉一族が一乗谷へ居城を構える前に住まいを構えたといわれる黒丸城町が近くにあるので朝倉家としては大切な思い入れの強い地域だったことは間違いなさそうです。

 

1枚目・土塁がありますがこの土塁は太平洋戦争時のものとも言われています。2枚目の横堀・曲輪と思われる場所は規模が大きいので古くからのものを再利用しているような気がします。3枚目・越前海岸から三国町方面まで確認できるので一向一揆を含めた坂井市を確認していたと考えられます。

 

朝倉家滅亡後の朝倉山城は?


朝倉景連は織田信長が攻めてきた天正年間には登場することがなくこのことからそれまでに亡くなった可能性が高いといわれます。また、その後の朝倉山城は一向一揆衆が利用したといわれていますが詳細はわかりません。


その後、太平洋戦争時には陸軍の監視所とされたらしく現在はそのころの面影もあります。

 

朝倉景連は越前朝倉家の一番華やかな時期にその華やかさを最大限アピールした武将で派手好みで義景の信頼も厚かったと考えます。上杉家との手紙にも登場するので一向一揆の対応を行っていたことがわかります。情報が少ない武将ですがとても気になる武将です。

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