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加賀一向一揆と対峙した金津溝江氏とは? あわら市大溝

戦国時代の越前の北部、加賀との国境は常に争いが絶えず越前を治める朝倉家と加賀一向一揆の戦いはとても多くこの現在のあわら市の辺りは越前朝倉家にとって大切な拠点のひとつだったと考えられます。そんな地域を守っていたのが溝江氏です。

 

あわら市大溝にある大溝神社。境内には馬場薬師堂がありそのまわりの地名には馬河原・兵庫殿など一向一揆との戦いの跡地を感じさせる地名が残る。

 

▪︎溝江氏とは?

 溝江氏の歴史は古く、奈良時代には東大寺の荘園のひとつに溝江郷とあります。平安時代になると藤原氏の影響が強くなりこの辺りは北国荘園のひとつ河口庄となります。河口庄は藤原氏ゆかりの興福寺領で藤原氏の祖先のアメノコヤネ(天児屋根命)を祀る春日神社が多くみられます。特に十郷十社と呼ばれる10の郷にそれぞれ春日神社を建てそれを地域の総社として祀られていました。その10の郷のひとつに溝江郷もあり現在の大溝神社はこの十郷十社のひとつとされています。『江』は川のことを指しているのでこの地域では竹田川を指すと考えられます。その竹田川を中心に集落を形成させていった一族が溝江氏ではないかと考えられます。


▪︎織田信長の家臣に!

 溝江氏は鎌倉・室町時代には地頭職を務めていたと考えられていて荘園の治安維持や年貢の徴収などを行っていくうちに権力を得ていき領主的な立場になっていったと考えられます。その後、戦国時代に入り越前朝倉家の家臣となったと考えられます。永禄11年(1568年)将軍・足利義昭が越前で朝倉一族とお会いになった際その末席にいたことが朝倉始末記に残っています。つまり、溝江氏は婚姻など何らかの方法で朝倉家とは親戚関係になっていた可能性が高いです。

 朝倉義景が姉川の戦いや刀根坂の戦いなどで敗れ自害したとき、溝江氏は北口の警護のため出陣を断りました。のちに溝江氏は織田信長につかえるが領地はすべて安堵されています。その為、北口の警護のため出陣しなかったのはすでに織田方に寝返っていたのではとも言われいています。



 

金津溝江館跡地のお堂の後ろには供養塔があり父・溝江景逸(右)、子・長逸(左)の法名が刻まれています。天正2年2月29日溝江館が落ちた日。

 

▪︎朝倉の残党と一向一揆に目の敵に!

 織田信長が朝倉義景を討ち越前を平定した後、織田信長は目付け役として明智光秀、豊臣秀吉、滝川一益を越前に残し岐阜に戻ります。次第に明智光秀などの目付け役も代官を置き信長のもとへ戻っていきます。これを元朝倉家家臣・富田長繁はチャンスと考え加賀一向一揆と手を組み越前に一向一揆を迎え入れることになります。加賀一向一揆は今まで朝倉家とともに一向一揆と戦ってきた溝江氏を目の敵にしたといわれ金津溝江館には2万を超える一向一揆が集まったとされます。これは加賀の守護職・富樫氏をかくまった事も影響していると考えられます。迎え撃つ溝江氏は700。しかし、溝江氏は弓矢や鉄砲などで応戦し一揆勢は死傷者が続出しました。

 次第に戦況は数に勝る一向一揆勢が有利になっていきます。そんな時、館の手前から大きな掛け声が一斉に聞こえ溝江氏は一向一揆が館内に討ち入ってきたと勘違いし溝江景逸・長逸を合わせ30名余りが自害し果てます。

 残った溝江館の人々は土居を乗り越え逃げましたが一向一揆衆が捕まえて服をはぎ取りち打ち殺していったといわれその有様は目もあてられず哀れなりと福井市森田地区にあるお寺の記録に残っています。



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