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王子保は 王子信仰 あやかり名(第15話)

更新日:2023年4月13日


越前富士と呼ばれる「日野山」の西麓、日野川水系の谷底平野部には、「鯖波」を筆頭に、「関の鼻」「松が鼻」「大塩」「白﨑」等、地元専門家や古老でもその由来は不明とする摩訶不思議な古地名が存在する。 発音が同じ隣村の「大塩保(村)」とも関連し、「王子保」も、その公表された地名由来に摩訶不思議を感じる古地名の一つである。


1. 王子保は、「古代から都と北陸を結ぶ交通の要衝であった。古代には、河野や敦賀の海と武生の国府を最短コースで結び、塩を運んだといわれる『塩の道』があった。 1815年の越前国名蹟考には『往古は王子保、元暦2年(1185年)より大塩保と号す』と記される。鎌倉時代の史料にも『大塩保』や『大塩村』とある。明治22年の町村制の実施により『王子保村』が誕生。」と、王子保公民館のHPに記載されている。尚、この記述は、平成28年時点から現在令和5年度の記述と変わっていない。


江戸末期に編纂された「越前国名蹟考」に記載された「往古は王子保」の往古は、何時頃を指すのだろうか? また、平安時代末の1185年頃に、「王子保(村)」から「大塩保(村)」に変ったと言うのも、「オオシホ」の呼称は縄文中期発祥との筆者のサバ読み仮説とも異なる。 また、891年創建の大塩八幡宮の社伝とも異なり、越前国名蹟考の時代考証に錯誤があるのではと疑問が残る。

一方、王子保公民館の言う「古代」とは、越前武生が国府となった奈良時代頃の歴史を指していると思われる。 王子保地区には、超古代的歴史ロマンを秘めた「白﨑」に「大塩」や「平吹」と言った世に誇り語れる摩訶不思議な古地名が存在している。 しかしながら、江戸末期に編纂された史料「越前国名蹟考」をほぼ踏襲している王子保の地名由来には、少々の寂しさを感じるのである。


2. 今から約6千年前の縄文海進ピーク時の鯖波峡湾が存在した時代に、白崎は、白く輝く岬を指した地形由来、また、大塩保は、集団製塩で賑わった村落群を指す特徴由来であったこと、並びに、その時代約3~4千年の期間には現在の王子保は海面下で存在していなかったことは第6~7話で解説の通り。 現在の王子保地区が陸地化した時代は恐らく弥生前期時代で、その頃は、まだ、白﨑、若しくは、オオシホ(大塩保)と呼ばれ続けていたと比定できる。更には、紫式部が日野山を詠んだ歌に「をしほ」と「大塩」を指す掛詞が見られる<日本地名辞典>ため、平安中期時代でも、現在の王子保も含め、この地域は、縄文海進時代由来の「オオシオ⇒大塩保」と呼ばれていたとも比定できる。

戦国時代発祥と言われる東京の八王子等、漢字の「王子」が付く地名が各地で出現し始めた時代は、神仏混合の王子信仰が盛んになった平安から鎌倉時代にかけてとの説もある。 従い、その様な流行を知る当時の支配層が、豊かな稲作農耕地帯と北陸道の要衝宿駅に変貌した白﨑・大塩保の谷底沖積平野部に誕生した新しい集落を、縄文中期起源の近隣古地名「オオシオ=大塩保」に当時流行の「王子」の漢字を当て、新地名を「王子保」としたのが由来とサバ読み仮説も成り立つのである。


3. まぼろしの北陸道「塩の道」と呼ばれる街道は、下に示す看板画像が示す通り「(白崎→)大塩⇔<大塩谷川沿い>森久⇔瓜生野⇔菅谷峠⇔(ホノケ山)⇔菅谷⇔山中峠⇔元比田⇔杉津⇔敦賀」のルートと言われている。

この流通ルートの開拓と発達は、縄文海退が進み、大塩・白﨑・王子保地区以南が陸地化し、漁業や製塩業も途絶えた紀元前約350年以降で、且つ、鯖入江⇔古九頭竜湾⇔越前海岸沿海⇔敦賀ルートの舟海運ルートに比べ、経済的に代替可能となった牛馬を使役できる物流時代に変遷した現れと考えられる。 

また、地形と生業と信仰の変化に伴い、この地域を総称する地名の呼称も白崎→大塩→王子保と変遷し、この地域に住む古代越前人は、漁労族から農耕族、物作りの職人族や産物商品の物流を陸路と水運で担う商人族に徐々に分業・進化し、また、信仰も縄文神道から神仏混合に変化して行った現れと推定できる。

第13話でも説明の通り、縄文海退がはじまり、鯖波峡湾の最北部、白﨑・松ヶ鼻付近も、弥生前期あたりから陸地化した。 

集団製塩業発祥の地で且つ塩取引の要衝地になっていたと比定できる大塩・白﨑地区は、陸地化に伴い稲作農耕文化と鉄器等物作り文化が発祥し、また、後背地の武生台地を介し海であった鯖入江とも繋がり、水陸交通の要衝として、いち早く発展したと思われる。 

弥生時代後期には、鯖江台地と武生台地を統括支配する王族も誕生していたとのサバ読み仮説も成り立つのである。

4. 白崎町・大塩町の隣町には、中世の大塩保の地名を冠した古社「大塩八幡宮(891年創建)」が鎮座する。八幡神は、応神天皇を主神格とする武運の神道であったが、その後「八幡宮」と呼ばれる神

仏習合寺社信仰になったと言われる。  一方、八幡神は、元々大漁旗を意味する九州宇佐土着の海神信仰が発祥起源との言われも残り、大塩八幡宮にも当てはまる伝承と比定出来る。


縄文海進時代には集団製塩業の地名として呼ばれた「大塩保(村)」にも、海神を崇め祀る縄文神道祭祀場が存在していたと比定できる。 河岸上位段丘に鎮座する大塩八幡宮も、縄文海進ピーク時代に、地域主民の縄文信仰の集団祭祀場として発祥し、後に神社神道に進化・継承され、平安時代に入り、地域の支配層が石清水八幡宮の分霊を勧請・奉戴合祀されたものとも推測できる。


小学校の遠足で訪れた大塩八幡宮に、山中のお宮さんにも拘らず「海や舟を描いた絵馬」が多く奉納されているのを見てとても不思議に思ったと話す同窓友人がいる。 

その摩訶不思議は、鯖波・大塩の地域が約4000年もの間、海で覆われた時代に発祥した縄文海神神道が、信仰様式を変化させながらも絶えることなく伝承された祭祀儀礼と共に、今日に引き継がれた証の一つと思われる。                                    以上

<第16話に続く>  泉州 閑爺

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