佐々木小次郎との関係は?越前国が誇る最強剣士・富田勢源不死鳥の如く蘇る越前国
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佐々木小次郎との関係は?越前国が誇る最強剣士・富田勢源

更新日:2023年8月20日


佐々木小次郎との関係は?越前最強剣士の富田勢源
不死鳥の如く蘇る越前国の記事・佐々木小次郎との関係は?越前最強剣士の富田勢源のバナー

一乗滝をバックに建つ佐々木小次郎の銅像
剣豪・佐々木小次郎は一乗滝で修行をし秘剣・燕返しをあみ出したといわれています。

 なぜ、佐々木小次郎は越前国の一乗滝で剣を磨き秘剣・燕返しを編み出したのか?と思っている方も多いと思いますが、実は一乗滝のある福井市浄教寺町は幻の剣士・富田勢源が住んだ地であり現在も道場跡が残るなど越前朝倉家の剣術拠点であったことはあまり知られていません。最強と言われた富田勢源実は目があまり見えない。しかしそんなことを感じさせない一撃の早業で敵を討ち、その逸話はまさに映画のワンシーンのような戦いぶり!そんな富田勢源を深堀りしていきます!


  1. 眼病を患った剣士・富田勢源とは?

  2. 神道流の達人、梅津某との決戦!

  3. 佐々木小次郎との関係性は?

 

1、眼病を患った剣士・富田勢源

 

 まずは、富田勢源の剣術・兵法中条流について。中条流とは鎌倉時代の執権・北条貞時の時代に三河国の豪族・中条頼平がお家芸として敵を刺す方法として作られたのが始まりと言われます。当時は早業を主にし素早く相手を討ち取ることにこだわっていました


 中条頼平から4代後の中条長秀が謎の老人・慈恩と考えられた兵法が中条流の基本となります。この慈恩という方は奥州相馬家の人物といわれ父が殺害されたためその仇を討つため剣術を極めたといわれ、鞍馬山で異人に会い妙術を授かり、鎌倉の真言宗の僧から秘伝を受け筑紫の安楽寺で奥義を会得した。九州の岩戸にこもり夢の中で剣術の妙を得たといわれます。


この謎めいた老人・慈恩と中条流合わさりそこで確立されたのが妙剣、絶妙剣、真剣、金翅鳥王剣、独妙剣の五典の型。この型は後の日本兵法の源流ともいわれます。狙いは首と腕、そして胸と腹は突く技が中心となっていてもともと早業を基本としていた兵法に一撃必殺が加わったと考えられます


 

 この動画は富山県立図書館所蔵「兵法手鏡」等を参考に、富田流の表(おもて)の形六本を復元した貴重な動画です。富田勢源の弟・富田景政は朝倉家滅亡後、前田家に仕えます。越中富山藩には富田勢源の弟子がいたとされ、弟子のひとり喜多村主計助に学んだ山口宗久が越中で伝えたといわれます。それらを現在に再現したものです。

 注目したのは五本目の燕廻(えんかい)という形。その字は佐々木小次郎の燕返しに似ています。また小太刀の達人・富田勢源の技らしく小太刀が使われているのも注目です。

 

 そんな中条長秀が甲斐豊前守に伝えたといわれ、この甲斐氏は越前国守護の斯波氏の重臣でのちに下剋上を起こし斯波氏と対立、同じ斯波氏に仕えていた朝倉氏と抗争を繰り返すこととなる一族です。そんな甲斐氏から大橋高能という人物へこの中条流が伝わり越前の富田長家にその秘法を伝えたといわれます。富田長家は朝倉家に仕え兵法・剣術を大橋高能に学びそれを極めました。ここから中条流は富田流とも呼ばれることとなります。


 そんな富田流は富田勢源の登場で隆盛を極めその強さは世に広まりました

中条流(富田流)の剣豪・富田勢源の肖像画
越前国が誇る中条流(富田流)の剣豪・富田勢源は目が不自由だったと伝わる。肖像画には白目が多いが鋭い眼をしている・

 富田勢源(とだ せいげん)は現在の福井市浄法寺町に生まれたといわれこれは朝倉家の一乗谷城に近い地域で勢源が生まれた時、富田家は朝倉家に仕えていました。富田家に生まれたが目が不自由なため弟・景政が家督を継いでいました。一説には加賀一向一揆との戦いで目つぶしにあったといわれます。硝石、硫黄、灰、唐辛子などを粉末にし風上から振り撒くなんとも防ぎようのない無差別攻撃を受けました。しかし、そのことで勢源の名が落ちることもなく腕も落ちることはありませんでした。家督を継いだ景政も勢源の前では赤子のようにやられてしまうという剣の腕であったといわれます。


2,神道流の達人、梅津某との決戦!


 富田勢源の強さは謎に包まれています。その理由は勢源の兵法者としての考えによるものが大きいと考えられます。


 争わぬこと これが平法の心である

 争えば勝ち負けにこだわり恨みを生みまた争いを生む。


 その為、中条流は他流仕合を禁じていた。さらに、勢源が極めた術は小太刀を中心になっている。これには、


 大太刀は人を斬るものである。小太刀は身を守るものである。平らかな道を求めようとすれば、小太刀を学ばなくてはならない。巧者になればなるほど太刀は短くなってしかるべき。


という富田勢源の独自の考えがもとになっている。謎の強さは戦いを好まない富田勢源の思いや考えによるもので無益な仕合を行わなかったことが逆に勢源の強さを謎めいたものにしたと考えます。


 そんな富田勢源の数少ない戦いの中でも一番有名なのが梅津某との戦いです。この梅津という人物は常陸国鹿島の塚原ト伝の創始した新当流の使い手とされ当時、美濃の斎藤義龍のもとで剣術を教えていた2人の剣士を一撃で倒したことで名を上げ、斎藤義龍にかかえられ剣術や兵法を美濃で教えていた人物とされます。


 当時、美濃と越前は仲が良く特に斎藤義龍は父・斎藤道三によって美濃を追われた土岐氏との関係が強かったといわれています。その土岐氏を保護し美濃奪還のため力を貸した越前・朝倉家は義龍にとって信頼のおける間柄と考えられています。しかし、時は戦国時代。いくら仲が良いとはいえ美濃と越前は人質の交換を行っていました。美濃へ朝倉家の人質として送り込まれたのは成就坊という方で朝倉義景の叔父にあたる方、そして富田勢源の友人でもあった人物です。そしてその仲の良さから朝倉家の使者として人質の身を慰めようと選ばれたのが富田勢源でした。


 この富田勢源が美濃へ来ることを成就坊より喜んだのが斎藤義龍でした。さらに梅津某もここぞとばかりに挑戦状を送り付けます。実は梅津某はすでに越前へ仲間を送り込んだが富田勢源に敗れていたともいわれていて梅津某にとってはかたき討ちの気持ちもあった可能性があります。梅津某は義龍に仕合をさせてほしいと頼み込みます。義龍も勢源に仕合をお願いしたが勢源は隠居の身であることを理由に固辞しました。しかし、梅津某あきらめず何度も仕合を申し込んだ。それでも勢源は何度も断った


 梅津某は 『我が新当流は中条流と違い、相手が誰であろうと仕合となれば容赦はしない!それがたとえ国主でもだ!

 と大口をたたいたと言われています。このたとえ国主でもの部分が気に障ったのか義龍は富田勢源に対し重臣を使わせ仕合するように命令を出すことになります。これに勢源は仕方なく仕合を受けることになります。


 仕合は3月23日、辰の刻、場所は武藤阿波守屋敷。屋敷に着いた勢源はそこにある1尺2,3寸(約30~40cm)の薪の割木を取り元の方の皮をはいだ。梅津は長さ3尺5寸(約165cm)の長い木剣を錦の袋に入れて持参した。


 仕合は一瞬だった。飛び上がる勢源と梅津が入れ替わると梅津の首は血に染まった。中条流ならでは早業で後頭部を打っていたといわれる。


3,佐々木小次郎との関係性は?


 朝倉家が滅びると勢源の住む浄教寺村も焼き払われた。そんな浄教寺村に勢源は居座った。弟の景政はこのころ前田利家に仕えた。しかし、勢源は浄教寺村に残り兵法に精を出した。


福井市西新町の神明神社の裏手にある富田勢源の道場跡
一乗谷地区にある福井市西新町の神社の裏手には富田勢源の肖像画と案内板が出ています。

 この時、勢源は3人の弟子を取り立てたといわれています。


 一人目は、林田左門。勢源の小太刀の妙術を受け継ぎ筑前黒田家に仕官した。黒田長政に仕えた林田左門の逸話は多く残ります。


 二人目は、関久右衛門保重。勢源に兵法を学びそれを槍に取り入れ機流と称した。


写真は福井市西新町の神明神社の裏手にある中条流の道場跡。富田勢源の説明板がある。



 そして三人目は伊藤弥五郎ことのちの伊藤一刀斎と呼ばれている。この方も伝説の剣豪と呼ばれている方で幼き一刀斎は勢源に勝つために太刀を長くしたと伝わります。そしてこの伊藤一刀斎が偶然の中で得た技が燕返しというもの。そう、のちに佐々木小次郎が一乗滝で練習し編み出したといわれる技。なぜ佐々木小次郎がこの燕返しを会得したのかは謎に包まれているが、富田勢源の弟子、または弟子の弟子と言われていて佐々木小次郎が修行したと伝わる一乗滝は勢源の村にある滝であることなどから佐々木小次郎がこの中条流(富田流)学んでいたことは間違いない伊藤一刀斎が太刀を長くしたといわれる話と佐々木小次郎は長い大太刀だったことも話としては繋がります。


 その後の富田勢源の話はほとんどない。しかし一乗谷の盛源寺には勢源の墓と伝わる大きな石柱がある。寺への道にはたくさんの石仏があり一乗谷らしい風景である。

富田勢源の墓所と伝わる盛源寺の参道
富田勢源の墓所があると伝わる盛源寺の参道には数々の石仏が並びます。一乗谷は織田信長に焼滅ぼされましたが現在でも多くの石仏が残っています。

伝・富田勢源墓所
高台にある富田勢源の墓所と伝わる石塔。石塔にも多くの石仏が立てかけられています。石塔には梵字が刻まれています。

写真は盛源寺の参道に並ぶ石仏群と富田勢源の墓とされる石塔。


 富田勢源の話は謎に包まれているものが多いが宮本武蔵伝記「二天記」には佐々木小次郎の師として登場

 

 その後の林田左門や伊藤一刀斎の逸話や加賀前田家に仕えた富田家の活躍を見るとその強さはひしひしと伝わってくる。そんな最強剣士・富田勢源は名将・朝倉宗滴などと並んで越前の強さの象徴だったのだと私は思います。



 






















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