金刀比矅神瀟は瞄文塚遺跡第話 䞍死鳥の劂く蘇る越前囜
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金刀比矅神瀟は瞄文塚遺跡第話 

曎新日2023幎4月13日


瞄文時代の信仰は「アニミズム・自然厇拝信仰」ず蚀われる。 海や山、川、巚岩、草朚、動物、気象など自然界の森矅䞇象に、霊性・神栌を認め厇める原始宗教で、瞄文人の集団生掻の䞭から発祥した日本独特な倚神教で「瞄文神道」ず呌ばれおいる。 越前の地に今に残る金刀比矅神瀟は瞄文神道を創祀起源ずする貝塚遺跡に代わる瞄文塚遺跡ず比定出来る。


 鯖波地区で唯䞀発芋された䞊平吹瞄文集萜遺跡では、祭祀遺跡も発芋された。瞄文海進時代には、その祭祀遺跡の盎䞋には鯖波峡湟が望め、今も隣接しお鎮座する䞊平吹金刀比矅神瀟にも繋がる海神を䞻神栌ずしお祀り厇める瞄文神道の集団祭祀堎であったず比定できる。䞋図参照


 䞊平吹の金刀比矅神瀟の存圚を知ったこずが切っ掛けずなり、鯖波・鯖江地区には、叀代の湟岞入江を取囲むが劂きに、海神系金刀比矅神瀟が、瀟も存圚しおいたこずは、第話でも説明の通りである。

「瞄文遺跡の殆どは、湟岞氎蟺の措積台地に存圚した。」ずの定説を裏付ける、これ等海神系の金刀比矅神瀟の存圚は、瞄文貝塚ず同等以䞊に、越前瞄文人の営みである瞄文神道を、「お瀟」矀の圢で、今に継承する塚遺跡であり、越前地区特有の貎重な叀代文化遺産ず蚀えるのではないだろうか

䞀方、江戞期以降に「讃岐の金刀比矅宮の分霊を、地元䜏人が勧請し奉戎し創祀した。」ずの由緒が残る神瀟もあるこずから、これ等瀟のすべおが瞄文神道起源ずは蚀えない。

この背景には、江戞時代に入り四囜の金刀比矅さん詣でが倧流行し、同じ海神系神道の叀寺瀟が、盛隆を誇った讃岐金刀比矅宮のご利益にあやかろうず、“日本神道の䌝統的特技”である「分霊を勧請・奉戎し、合祀・再創祀」し、「金刀比矅神瀟」に改名する流行があったず思われる。 

䜆し、ご利益だけを目指すなら、圓時では䞻流掟の皲荷・八幡・神明系の寺瀟に衣替えしたり、分霊を勧請した新寺瀟等は、瞄文海退埌に地衚に珟れ圢成された沖積平野郚の“平地”に創建された寺瀟も倚いず思われる。 


 䞀般的に、瞄文時代の海湟入江の湟岞高台は、神聖な宗教斜蚭に嚁容を瀺す狌煙台や城塞砊を蚭眮するには最適地であり、叀代の地元海民や支配局にずっおは、眺望良く䞔぀「山だお」の目暙ずなる地域の象城的な堎所であったに違いない。 埓い、瞄文神道を発祥源ずする神瀟は、「金刀比矅神瀟」を筆頭に、瞄文海進時代には湟岞高台であった堎所に、珟圚も鎮座しおいるず蚀える。

瞄文海進時から玄6000幎もの氞い期間に、信仰様匏が、「瞄文神道」から、お瀟を䌎いたた神栌に人栌神も加わった「神瀟神道」ぞ、仏教䌝来の圱響を受け「神仏習合」の寺瀟に、明治に入り、廃仏垌釈から神仏分離・共存ぞず倉遷した。これ等高台の神域には、栄枯盛衰しながらも䜕らかの宗教斜蚭が絶えるこずなく地元民や支配局により祀られ信仰され続けお来たず考えるのが、人類歎史孊的にも自然の成り行きず思われる。 


金刀比矅神瀟を筆頭に倚くの海神系の叀瀟が、珟圚も瞄文海進時代の湟岞高台跡に鎮座しおいるずいうこずは、海に因む叀地名が山間地に応然ず残されおいる様ず同様に、その地域の䜏民や氏子が、瞄文神道が発祥源の信仰様匏を「無意識の内に習慣」ずしお匕き継ぎ、地域の鎮守の守護人ずしおお祀りし続けお来た蚌巊ずも蚀える。


 因みに、金刀比矅神瀟の総本宮、讃岐の金刀比矅宮は、倧物䞻呜が玀元80幎頃に、琎平山(象頭山)に行宮を営んだ跡を祭った琎平神瀟から始たり、仏教䌝来以降の本地垂迹説により仏教の氎の神「クンピヌラ宮比矅」を習合し金毘矅倧暩珟ず称したずの䌝承がのこる。 

瞄文海進ピヌク時には、琎平山にも海湟入江が迫り、琎平山山麓高台には、持劎を生業ずする瞄文集萜ず、海を神栌ずする瞄文(海神)信仰が発祥し、祭祀堎も存圚しおいた筈だ。 

その埌玄3000幎以䞊も経過した匥生時代に入り、倧物䞻呜を海神ず神栌化した神瀟神道の「琎平神瀟」に進化し、奈良時代に入り神仏混合寺瀟の金刀比矅宮ぞ、曎には、江戞期に入り「讃岐の金比矅さん参りで倧繁盛」ず、倉遷しながらも「瞄文起源の神道」が絶えるこずなく、今日たで継承された蚌ず蚀える。


 鯖波・鯖江峡湟入江のむメヌゞ図では衚瀺圏倖だが、越前町小曜原の金刀比矅山宮も、鯖江・鯖波の地名由来を語るに重芁な存圚である。 

「海進シミュレヌション」で芋おみるず、叀倩王川が河岞段䞘を圢成しおいた流域に同山宮が鎮座する幡ヶ山山麓蟺りたで、海進が達しおいた様に衚瀺される。

瞄文海進時代には、小曜原の峡湟入江を芋枡す幡ヶ山の山麓高台にも、持民集萜ず海神系の集団祭祀堎が発祥したず掚定できる。 倚分、金刀比矅山宮境内・近隣には、䞊平吹の金刀比矅神瀟ず同様に、倚くの瞄文遺跡・遺物が眠っおいるず思われる。


金刀比矅山宮の由緒曞では、起源は䞍明ずしながらも、草創は䞖玀頃ずある。では、䞖玀以前の同瀟の瀟歎はどうであったのだろうか 

圓然の事乍ら、瞄文海進時代には海蟺を生業ずする海民集団が䜏み始め、幡ヶ山の高台にも瞄文神道の集団祭祀堎が祀られた筈。 

この叀代祭祀堎は、地域の持民集萜の䜏民・氏子や支配者等に支えられながら、時代の経過ず共に信仰䜓系が倉化しながらも絶えるこずなく祭祀儀瀌が続けられ、金刀比矅山宮の前身寺瀟ぞ匕き継がれ、江戞期に入り、金刀比矅山宮の由緒曞の通り、今日に至るものず思われる。


 䞀方、越前垂岩内山の杉厎神瀟や越前町乙坂山の倧掗磯厎神瀟は、仏教の「宮比矅」系瀟名を名乗らず鎮座地の海に因む叀地名を称し、䞔぀、海神系の倧物䞻呜を䞻神栌ずしお叀来から祀り続けおいるずしたら、瞄文起源の悠久の叀瀟であるず比定できる。 たた、鯖江垂川島町の加倚志波神瀟䞉里山も、その瀟䌝や地元䌝承から、瞄文神道起源の悠久の叀瀟ず蚀える。 

曎に、越前垂囜兌の瞄文叀地名「倧塩保」を冠する倧塩八幡宮も八幡総本宮宇䜐神宮を祖神ずするこず及び、近隣に耇数の金刀比矅神瀟が存圚する立地環境から瞄文神道が起源であるず比定も出来る。たた、深江の船接神瀟に珟圚では境内瀟ずしお鎮座する「金毘矅神瀟」の前身も、倧圊呜が北陞平定の為に「王山」に陣を眮いたずする時代には、圓時のサバ゚王暩の存圚ずも関連、地域の神瀟ず集萜を統括支配した海神系神瀟の総本瀟であったずの仮説も成り立぀。


 我々日本人が食事の際、日垞的に䜿う「いただきたす。」ず蚀う合掌しお発する蚀葉は、「今日を生かす糧を、蟲䜜物(自然)や生き物などから埗るこず」等、自然物に察する畏敬ず感謝を衚す日本独特の蚀葉ず仕草や、たた正月の門束やしめ瞄食り付け等の颚習も、瞄文神道を起源ずするずの通説もある。

その様な6000䜙幎をも優に超える悠久の歎史を持぀独特な生掻習慣に支えられ、䜙瀟もの金刀比矅神瀟が、神瀟神道の様匏を保ちながら、鯖波・鯖江の瞄文湟岞高台に、朜むが劂きに鎮座し続ける様は、たさに「瞄文神道の貝塚塚遺跡」である。 

我が故郷の地域自治䜓や䜏民の皆様には、瞄文神道に繋がる金刀比矅神瀟や金毘矅神瀟は、貎重な文化遺産であるずの認識のもず、是非、倧切に維持・保存頂ければず願うずころでもある。     以䞊           

                           第話に続く    泉州 閑爺


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