越前国に10年余り住んでいたとされる明智光秀。しかしその10年間の記録はほとんどなく、当時の明智光秀の身分の低さや越前を治めていた朝倉義景やその家臣たちの明智光秀の評価は決して高いものではないと考えられます。ただ、明智光秀が関係したとされる地域には現在もいくつかの話が残っていてそれらを辿っていくと明智光秀の越前国での状況がいろいろ分かってきます。越前国での明智光秀の10年はどんな状況だったのか?足跡を辿っていきます。
1,なぜ、越前国へ?美濃の混乱の中での若き明智光秀
2,越前国・長崎称念寺で伝わる黒髪伝説
3,織田信長の越前侵攻で行った明智光秀の越前愛
1,なぜ、越前国へ?美濃の混乱の中での若き明智光秀
まずは明智光秀が住んでいた美濃国の状況を簡単に整理します。
当時の美濃国を治めていたのは守護大名の土岐頼武。しかし、この頼武の弟・頼芸(よりのり)との跡目争いがあり美濃国は内乱状態でした。土岐頼武は劣勢に陥り越前国に落ち延びます。その時、頼武は当時の越前国を治めていた朝倉貞景の娘と婚姻を行い朝倉家の力を借り美濃に攻め入りますが一進一退の状況の中で土岐頼武は病で亡くなります。この朝倉貞景は朝倉義景の祖父にあたりこの娘はおばさんにあたります。
明智家はこの土岐頼武に仕えていたと考えられ頼武が越前・朝倉家のバックアップを得て美濃での勢力を保っていたこともあり明智家も越前とは深い繋がりがあったと考えられます。そんな中で土岐家の跡目争いは最終的に土岐頼芸に仕えていた斉藤道三が美濃国を治めるいわゆる下剋上が行われました。斉藤道三は土岐家の後ろ盾となっていた越前朝倉家や尾張織田家と和睦を行った事によって土岐氏は急速に影響力を失っていきます。ちなみにこの斉藤道三と尾張織田家との和睦の内容が、あの有名な織田信長と道三の娘・濃姫の婚姻でもあります。そして明智家は斉藤道三に仕えることになります。
しかし、ここでも斉藤道三と嫡男・斉藤義龍の争いが勃発し斉藤道三に仕える明智光秀は長良川の戦いで敗北し一家離散し越前に逃れたと考えられます。
2,越前国・長崎称念寺で伝わる黒髪伝説
越前へ逃れた明智光秀は長崎称念寺(坂井市丸岡町)に住んだといわれています。寺子屋をやっていたとか医者をやっていたとか伝わりますが詳細はわかりません。明智光秀が過ごした越前時代は彼にとってどんな時代だったのかを考えると、1553年に煕子(ひろこ)と結婚しその3年後の1556年に越前入りしたと考えられています。1563年に玉(のちの細川ガラシャ)が生まれています。
これらを考えると25歳で結婚して28歳で越前に入り35歳で玉が生まれる。(※1528年生まれと考えた場合※)玉は三女として生まれているのでその間にも子供は生まれている。つまり明智光秀にとっての越前は新婚時代とも考えられ夫婦の仲が良かったとされる明智光秀にとっては慎ましく夫婦寄り添ったで平和な時代ではないかなと思います。ただ、生活はとても厳しく長崎称念寺で伝わる黒髪伝説が当時の明智光秀の生活の状況を伝えています。
黒髪伝説とは、称念寺の住職が朝倉家の関係者や家臣と共に連歌の会を開催することとなり明智光秀もそこに参加することになります。連歌の会では武士達の教養をアピールする場でもあり明智光秀にとっても存在感をアピールする絶好のチャンスでもありました。しかし貧困の明智光秀は資金がない中、妻の熈子がその資金を自分の黒髪を質屋に売って用意したという逸話です。連歌の会は、熈子さんの用意した酒肴(お酒と魚)で大成功に終わり、やがて光秀は朝倉家への仕官がかないます。後に妻・熈子が自慢の黒髪を売って資金を用立てたことを知った明智光秀は妻の愛に応えて、どんな困難があっても必ずや天下を取ると、誓ったといわれます。
この逸話は松尾芭蕉にも『月さびよ 明智が妻の咄(はなし)せむ』と歌われています。
丸岡町舟寄、長崎地区を治めていた朝倉義景の家臣・黒坂景久。江戸前期の儒学者・山鹿素行が書いた書物『武家事記』には明智光秀はこの長崎称念寺に住んでいた時、この黒坂備中守景久に仕えていたとある。長崎称念寺と黒坂景久の館は徒歩10分ほどで、その関係性を想像するに密接な関係が考えられる。写真は黒坂景久の館跡の石碑と墓所。黒坂景久は姉川の戦いで戦死したと伝わる。
3,織田信長の越前侵攻で行った明智光秀の越前愛
朝倉家に仕えることができた明智光秀は朝倉家の居城・一乗台の近くの福井市東大味地区に館を構えます。そしてこの時期にのちの細川ガラシャが生まれたとされます。その後の明智光秀は越前に来ていた将軍・足利義昭と関係を深めたと考えられます。明智光秀の住んだ福井市東大味地区と足利義昭が越前で滞在した安養寺は朝倉街道を徒歩1時間弱で行くことができる距離にありこの時期の明智光秀は足利義昭だけでなく、のちに関係を深めていく細川藤孝ともこの時に会っています。当初、明智光秀は細川藤孝に仕えていた足軽だったともいわれています。その後は、皆さんのご存じの織田信長に仕えて歴史の表舞台へと登場していくこととなります。
そんな思い出深い地域だった越前を織田信長は1573年に朝倉義景を討つ為に侵攻します。朝倉家と関係の深い地域は焼き払われ一乗谷に近い福井市東大味地区も織田信長の指示によって焼き払われそうになります。当時45歳の光秀は必死に、この地域の住民の命を助けてほしいと柴田勝家・勝定に懇願する書状を送っています。この書状は現在も東大味地区にある西蓮寺に残っていて福井市指定文化財になっています。
明智光秀の懇願のかいがあって東大味地区の住民は戦火から逃れることができたといわれます。そして東大味地区の住民はこのことに感謝し明智光秀の木像を彫り光秀の住んでいた館の跡に小さな祠を建て祀ったといわれています。ただ、謀反人・明智光秀を大きく祀るのは問題があるので石柱や社額などの名称が記載されたものはなく、小さな祠を隠すように守り祀ったといわれています。それが現在も残る明智神社になります。
明智光秀の越前国での10年間はとても厳しい経済状況と、織田信長に仕えていた時代には考えられない下積み時代が想像できます。しかし、明智神社に残る社伝などを見ると決してこの越前での生活を苦に感じることなく良き思い出の一部としてそれこそ第2の故郷のように感じていたのではないかなと感じます。今後、明智光秀の越前での生活が分かるような資料が出てくることは難しいと思いますが今残る明智光秀のお話は大切に後世に残したいです。
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