『貞享の大法』で揺れた福井藩!松平昌親の藩政改革と再興の道
- o_kataka
- 2025年10月31日
- 読了時間: 7分

鯖江市を拠点としているFMたんなん夢レディオで番組をやる機会をいただき鯖江市の歴史を再度、勉強しています。坂井市民の私にとって鯖江市や越前市は興味はあるけれどなかなか行く機会のない地域です。これを機に鯖江市・越前市を深堀してやろうと鯖江市をウロウロしています。
鯖江市と言えば松平昌親を思い起こすのは自分だけかな??越前松平家最大のピンチ『貞享の大法』を受けた福井藩!この大変な時期を支えた福井藩主・松平昌親公は鯖江吉江藩の藩主でもあります。
越前吉江藩誕生!藩主・松平昌親の誕生!
兄・松平光通の自殺に揺れる福井藩
まさかの仕事放棄??6代藩主・松平剛昌
貞享の大法で揺れる福井藩!屈辱的な家格低下!
耐えた松平昌親 72歳で眠りにつく
1.越前吉江藩誕生!藩主・松平昌親の誕生!

福井藩3代藩主の松平忠昌には優秀な男子が3人いたとされます。長男の昌勝、次男の光通、5男の昌親です。その他の男子は幼きときに命を落としたりしたとされ忠昌はこの3人にそれぞれ知行地を与え3人で越前松平家を盛り上げるように託したとされます。
福井藩は松平光通が継ぎ4代福井藩主となり、兄の昌勝は松岡藩(現在の永平寺町松岡)、弟の昌親は吉江藩(現在の鯖江市吉江町)を立藩し福井藩を支えた。
3人は父の言葉を守り越前をしっかりと治めたと言われます。
鯖江市吉江町には吉江藩館跡が残っています。吉江藩の藩士には近松門左衛門の父がいて、近松門左衛門の生誕の地であることをアピールしたものも多いです。住宅地には松平昌親を祀る吉江神社が鎮座しています。
2,兄・松平光通の自殺に揺れる福井藩
問題が起きたのは福井藩主を継いだ松平光通(まつだいらみつみち)。正室の国姫から生まれるのは可愛い娘ばかり、ところが側室の御三の方からは待望の跡継ぎの男子が生まれます。しかし、正室の国姫はこの側室から生まれた男子を認めず、実家の越後高田藩からの圧力もあり光通はこの男子に跡を継がせないと約束をしてしまいます。

のちにこの男子は直堅と呼ばれます。
ところがその後も国姫から男子が生まれることはなく35歳を迎えた国姫は年齢的に男子を生むことはないことを悟り、なんと自殺してしまいます。
さらに、このことでショックを受けた松平光通も責任を感じ自殺してしまうという最悪の状況に陥ってしまいます。
まさに福井藩大荒れの中、松平光通は遺言で5代福井藩主に昌親を指名しました。ここに5代藩主・松平昌親が誕生します。そして、吉江藩は福井藩に吸収され廃藩となります。

ところがここで大きな問題が発生してしまいます。
4代藩主の松平光通の遺言を無効だと言い出す家臣が続出します。
そもそも光通には松平直堅という立派な男子がいるのにも関わらず国姫の実家の越後高田藩の内政干渉によって跡継ぎを変えるのは間違いだと主張する福井藩の家臣らが昌親ら旧吉江藩の家臣たちをけん制しました!
さらに昌親や光通の兄・昌勝の存在も大きく影響を与えました。昌勝は松岡藩を自立した藩として立派に運営を行っていたため、その実績を買われ、この混迷を極める福井藩を治めることができるのは松平昌勝しかいないと松岡藩の家臣たちは昌親率いる吉江派や、直堅を推す福井派に訴えました。
特に力が入っていたのが直堅を推す福井派です。福井派の家臣たちは幕府に直接、訴え出るなど強気の姿勢を続けた。結局、遺言通りの5代藩主・松平昌親が認められ争いは落ち着くかのように見られたが、この争いが収まることはなく藩政にも支障が生じるようになり松平昌親は藩主の座を兄・昌勝の長男の剛昌に譲る苦渋の決断を下します。
3,まさかの仕事放棄??6代藩主・松平剛昌

福井藩主を松平綱昌に譲ることで落ち着くと考えられていた福井藩ですが、ここでまたしても問題が発生します。
綱昌が仕事をしないのです……。
綱昌は福井藩主の責務に耐え切れず藩政を行わないだけでなく、江戸への参勤をも怠ったため幕府はこのことを大きな問題として考え、なんと松平綱昌を隠居させてしまい藩主を昌親に戻すという決定をしてしまいます。
ここで7代藩主・松平昌親の再登場です!
4,貞享の大法で揺れる福井藩!屈辱的な家格低下!
しかし、6代藩主・松平綱昌の仕事放棄の余波は大きく越前松平家は厳しく罰せられることとなり知行地を大幅に幕府に没収され福井藩は25万石になってしまいます。これがいわゆる貞享の大法(じょうきょうのたいほう)と呼ばれる福井藩に出された幕府からの罰則命令になります。

葵の御紋の使用が禁止され五三桐紋に家紋が変更になり親藩としての特権が剥奪されました。外様大名などと同等の家格となり、元朝列座の下座化となりました。元朝とは正月のことで正月に行う将軍へのあいさつの並ぶ順番が下座に移ったということになります。また、将軍の名前から一文字をいただくことができる諱字の賜与(いみなのしよ)も停止されました。
2041人の藩士が解雇され残った藩士たちの給料も半減されました。

福井の武家屋敷は空き家が目立ち藩札も使えず借金もできないほど福井藩の信用は落ちました。とことん落ちたといってもいいのではないでしょうか。
松平昌親による7代福井藩主時代は24年ほど続き福井藩は緊縮財政を余儀なくされます。
この期間に行った松平昌親の政策として地場産業を利用した収入の確保です。日本有数の和紙の産地だった越前の越前和紙を福井藩の管理下におき販売をしました。その為、紙漉き農家は自由な販売が行えず、のちに紙一揆と呼ばれる一揆が起こります松平昌親が財政を立て直すために苦労していることが分かります。
福井藩は「御国反乱程之困窮」→いつ反乱が起きてもおかしくないほどの困窮ぶりと言われるほど厳しいかじ取りを行っていました。
5,耐えた松平昌親 72歳で眠りにつく

正徳元年(1711年)9月12日、苦しく耐えに耐えた松平昌親は72歳で永眠の途につかれました。まさに福井藩の苦しい時期に藩主を務め、耐えながらも藩政を支えた人物でした。
5代福井藩主に就いた時は4代藩主夫婦が自殺した重苦しい雰囲気の中で行われる派閥争いに巻き込まれ、7代藩主に就いた時は6代藩主の綱昌の仕事放棄の責任を福井藩として一身に受け藩存亡の危機の中で藩政を行っていきます。そして72歳の生涯を試練の果てに天へ還ります。
その墓所は福井市足羽5丁目の瑞源寺にあります。その墓石には葵の御紋が彫られていました。

福井藩は昌親の後に松岡藩の松平昌勝の息子・吉邦が8代藩主として就任します。
この松平吉邦は福井藩を新しいレベルへと引き上げてくれます。松平昌親は貞享の大法を受けた後、急激な緊縮政策を行っていったため、ケチで冷血な藩主として評価はあまり高くないです。しかし、松平吉邦は積極政策を行っていくので評価は高くなります。
倹約は吝嗇(ケチ)にあらず
松平吉邦の藩政を表す言葉として表現されます。厳しい藩政の中でも領民や家臣達への配慮を考え、文化教育へは積極的に資金を投じました。そのため、吉邦は名君、昌親はケチな藩主とイメージが着いてしまいました。
私は、松平昌親が厳しい時代を耐え忍んでくれたからこそ積極政策に転じることができた。と思っています。松平昌親なくして名君も生まれず!松平昌親は嫌われ役を務め越前松平家の汚点を全て受け止めた。このことを忘れずにその後の越前松平家を見ていくべきだと思います!


















コメント