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加賀藩の経済改革!前田利常が福井藩を追い詰める!

更新日:2023年8月20日



加賀2代藩主・前田利常は名君として名高い。時に福井藩は2代・松平忠直の時代。大きく発展を遂げた加賀藩に対し福井藩は松平忠直の配流など厳しい時代が続いた。そんな中、当時は貴重な塩を利用した経済対策を行った前田利常。それによって福井藩はどんな影響を受けたのかを深堀り!


  1. 北陸最大級の塩の生産地・福井市三里浜地区

  2. 能美市の海岸沿いに造られた塩窯と塩手米制度

  3. 福井藩を凌ぐ経済発展と密接になっていく徳川将軍家との関係


1.北陸最大級の塩の生産地・福井市三里浜地区で起きた離村

 福井市三里浜地区は日本海沿いの地域で海からの風は強く砂が舞い、土地も砂地の為、農地には適していなかったが、越前海岸は岩場が多くその広い砂浜は製塩所としては適していた。その為、塩の生産が盛んに行われた。その規模は慶長3年(1598年)の検地帳に詳しく記載されている。


白方村(福井市白方町) 塩釜5

浜住村(福井市浜住町) 塩釜1

石橋村(福井市石橋町) 塩釜8

石新保村(福井市石新保村) 塩釜9

両橋屋村(福井市両橋屋町) 塩釜6

免鳥村(福井市免鳥町) 塩釜4



確認できるだけでも30以上の塩釜があったのがわかります。

福井市白方町に伝わる話では、大野・勝山の城下で塩を売った代金で勝山産の煙草を買いそれを売りながら帰村した。と言われます。それを裏付けるようにこの塩生産の近くにある福井市川尻地区では貸馬が盛んに行われていて『橋屋・川尻 馬地獄 馬がなければ歳月がこせぬ』と言われ、地域すべての家で馬を育てたといわれています。


写真は石橋町の春日神社。製塩が盛んな地域は春日神社を祀っているのが特徴的。馬の飼育の盛んな地域では八幡神社。


三里浜地区で生産された塩は川尻・橋屋地区の馬を利用し勝山・大野まで販売を行ったと考えられます。


しかし、慶長年間に村民の離村が相次ぎます。理由は日本海からの風が強く砂地のこの地域では農業ができず、砂丘の移動が発生し製塩が難しくなったといわれます。そんな事情の中、村民は困窮にあえぐようになります。


2、能美市の海岸沿いに造られた塩窯と塩手米制度


そん厳しい経済状況の福井市三里浜地区の住民が加賀国へ離村したという話が多く残ります。福井市石橋町には『三里浜の砂丘の飛砂のため加賀国へ移住した村民もある』と伝わります。


ということで加賀国へ。


能美市吉原釜屋町の地名にある釜屋は塩釜のことを指し地域には春日神社が祀られています。その春日神社にある石碑に刻まれてる内容には


『 吉原釜屋町は藩政時代の初期(一六二〇)頃に越前の三里浜から移住した人々と近郷在住の人々によって吉原浦に釜屋を築き製塩を業として村建てをしたと伝えられこれが町名の由来になった。

  越前の三里浜は古来、藤原氏の荘園であり藤原氏の氏神は春日大社であったから移住された人々が故地である越前の春日社を勧請された。 』

とあり越前の三里浜から移住した住民と地元の方によって開村されたことが記載されている。

また石碑には近郷住民は白山社を崇敬していたので合祀されたとの記載もある。


また、この能美市吉原釜屋町付近には4つの春日神社が祀られていてそのすべてが越前国から移住した住民が越前で祀られていた神々を加賀国でも祀ったとあります。つまり、この4つの春日神社は越前国から移住し集落を形成した際の守り神として祀られたことになります。


浜村と呼ばれているこの地には

大釜屋、中釜屋、次郎兵衛釜屋、小釜屋、焼釜屋、又釜屋、道林釜屋、喜助釜屋、下釜屋

の、9の釜屋ができそれぞれに集落になっていき分村されたと考えます。


加賀国は前田家が菅原道真を厚く信仰していたため天満宮や白山のお膝元ということで白山神社が多くみられ春日神社はそれほど多くはありません。この流れで見ると石川県南部の加賀市、小松市、能美市での春日神社は越前と関係している又は藤原氏との関係が強いと考えられます。


そんな越前の塩士たちはなぜ、加賀国へ移ったのでしょうか??


加賀では2代藩主・前田利常による経済対策が行われていました。経済対策は特に南加賀(小松市・能美市・加賀市)を中心に行われました。これは初代藩主・前田利長が越中を中心の都市開発を行ったため、未開の地として選ばれたと考えられます。


いろいろな開発や経済対策が行われた中、前田利常が行ったビッグプロジェクトが『塩手米制度』でした。これは認められた地域のみ年貢の徴収を米でなく塩でも行うことができ徴収した塩は藩が一括管理し販売なども行うシステムです。塩問屋を指定し藩が徴収した塩を販売させ他の物を販売することを禁止しました。このことで加賀藩は安定した収入を得ることができこの制度は明治時代まで続くことになります。


3.福井藩を凌ぐ経済発展と密接になっていく徳川将軍家との関係

 関ケ原の合戦が終わると加賀では東軍に着いた前田利長には大聖寺領、小松領が加わり100万石になりましたが同じ関ケ原の戦いで越前北の庄68万石を拝領した徳川家康の次男・結城秀康は加賀藩を徹底的に管理しあら捜しを行いました。徳川家康が前田家を潰す口実を探していたことがわかり家康に忠実で負けん気の強い結城秀康は加賀前田家といえども容赦せず任務を行い加賀藩にとって結城秀康はやっかいな人物だったと考えます。


 しかし越前国と加賀国の立場は次第に逆転することとなります。


 それは加賀藩の徳川将軍家への徹底服従と結城秀康・徳川家康が死んだことによって時代が変わっていきます。



 加賀藩はお家取り潰しを避けるため、利家の妻・芳春院(まつ)を人質としたことや2代将軍・秀忠の娘・珠姫と加賀藩2代藩主・前田利常の政略結婚を行いました。前田利常と珠姫はとても仲が良く子宝にも恵まれたことが将軍・秀忠にも気に入られ加賀前田家は急速に徳川家と仲良くなっていきます。

 それに比べ福井藩2代藩主・松平忠直と徳川将軍家との仲は最悪になっていきます。忠直は将軍・秀忠の息子でのちの3代将軍・家光といとこにあたりますが年上でもあり大坂の陣では真田幸村を討ち取り、その他に3800もの首を討ち取り徳川方戦功第一と言われる武闘派、対して徳川家光は当時、9歳の少年で戦に出たことがありませんでした。将軍・秀忠にとって福井藩は自分の兄・結城秀康の国でありその子・忠直も家光に比べ年齢が高く戦上手となれば自分にもしものことがあれば敵は加賀前田家ではなく越前松平家ではと思い始めます。そして大御所・徳川家康が死んだことで将軍・徳川秀忠はだれにも遠慮せずに越前松平家への包囲網を固めていきます。


 そのカギとなるのは松平忠直の正室・勝姫です。勝姫は将軍・秀忠の娘で前田利常の正室・珠姫の妹にあたります。しかし、前田利常と対照的に松平忠直と勝姫の仲はあまりよくなく忠直が家臣の母に手を出そうとし断られると家臣の家を焼き払うなど勝姫にとって屈辱的な日々が続いたことで将軍・秀忠の忠直への怒りは頂点へと達します。


 そんな福井藩がバタバタと混乱したときに前田利常は三里浜の塩士に目を向けます。当時、三里浜では砂丘の移動で塩の生産ができなくなった地域が続出していましたが藩主・忠直は将軍家とのやり取りでそれどころではありません。そんな困窮した三里浜の塩士を加賀国へ招き入れ開村を促し生産された塩を藩の管理下に置くことで藩も潤い、塩士たちも生活できるようになります。


 貴重な塩の生産確保はその後の加賀藩と福井藩の明暗を大きく分けることになります。


 福井藩はその後、石高を減らしながら経済的に厳しい時代が続きます。

 加賀藩は前田利常の策略と経済対策で強い経済基盤を手に入れます。



 結城秀康の時代、加賀藩を追い詰めた福井藩は前田利常の時代には逆に経済的に追い詰められることとなります。名君と言われる前田利常、暴君と言われる松平忠直。正室との仲が将軍家との関係に影響を及ぼし貴重な塩が加賀に奪われ潤う加賀藩。対して福井藩は厳しい道へと進んでいくこととなります。

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