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木曽義仲が白山平泉寺に贈った藤島七郷の意味
加賀・篠原の戦いで勝利した木曽義仲は京を目指し進軍していきます。
寿永2年(1183年)6月1日に起きた篠原の戦い。その後、6月末には延暦寺との交渉を行っているのでこの越前国をスムーズに通り抜けたことになっています。
吉田郡永平寺町光明寺の白山神社に伝わる社伝には
『木曽義仲が治承4年(1180年)に以仁王の令旨を受けて、平家追討の軍を進めるに際し、白山大権現に戦勝を祈願するため太夫坊覚明に代参させた。俱利伽羅谷や加州篠原で勝利を納めつつ、当地に着陣されたとき、九頭竜川の洪水で舟筏が出せないので覚明に願文を認めさせ、弟野太郎光弘を白山大権現に代参祈願させたところ、洪水が治まり数万の軍兵は無事に渡河することができた。そこで神徳を称え白山三所と皇子七ケ所を建立奉斎した。』
この社伝からわかることや気になる点を抜粋しました!
1180年当時の越前国での白山大権現の影響力
謎の僧・覚明の話がこの越前に残る
弟野太郎光弘という人は??
まずは1180年当時の白山平泉寺は絶大な力と影響力を持っていたということがわかります。
木曽義仲は一度、越前国を支配下に置きながら平家軍に敗れ、越中まで追い詰められた。その際は白山平泉寺の長吏斎明の裏切りにより木曽義仲は敗戦を繰り返しました。俱利伽羅峠の戦いに勝利した木曽義仲は長吏斎明を捕まえて処刑している。つまり白山平泉寺と木曽義仲はあまりいい関係ではなかったと考えられます。
次に覚明という僧ですが、謎の多い人物ですが近江国へ入ったとき延暦寺との交渉を行った人物でその内容は平家に味方すれば延暦寺は滅亡するだろうと恫喝めいた内容になっています。この覚明が義仲の代わりに白山平泉寺へ戦勝祈願を行います。表向きは戦勝祈願ですが裏では長吏斎明のこともあり覚明が厳しく平泉寺と交渉を行っていたのではと想像できます。
ただ、木曽義仲はこのころ藤島七郷を白山平泉寺に寄進しており藤島七郷を与えることで平泉寺を味方に引き入れた可能性もあります。
弟野太郎光弘という人物はそのほかの資料には出てこないのですが木曽義仲の家臣団の中には千野太郎光弘という方がいて義仲と共に育った樋口兼光の家臣と言われています。社伝の内容が誤字の可能性があります。
藤島七郷に含まれる福井市大宮付近には白山神社が沢山
経田白山神社、福万白山神社、重藤白山神社など
木曽義仲は白山平泉寺に最大限配慮しながら京都へ向かったことがとてもわかる社伝です。また、藤島七郷にみる沢山の白山神社はこれからも続く白山平泉寺の越前における影響力を感じさせます!