今から遡ること約 7~6 千年前、縄文海進のピーク期には、現在の福井平野は、現風景と全く異なり、日本海に面する幅約10km以上の広い湾口の古九頭竜湾で覆われていた。 その湾奥は、 北欧のフィヨルドの如きに、穏やかだが急峻な V 字峡湾(以下、仮称「鯖波峡湾」と呼ぶ)を形成し、 南側山間地の「王子保」や「鯖波」から「今庄」付近まで達していた。 鯖波峡湾と古九頭竜湾の間には、鯖江の入江(以下、「鯖入江」と呼ぶ)が位置し、その海面に 浮き出た「鯖江台地」の高台「王山」からの眺望は、穏やかで青く澄んだ海原の南には村国山と 日野山の山並みや、左右には三床山と三里山が迫り、北側の目前には西山、その奥には乙坂山と経ヶ岳の山並みが海面に浮かび、それはとても多島美な絶景であった。
古九頭竜湾奥の山岳地帯から注ぎ込むミネラル豊富な河川水は、海藻とプランクトンに稚魚を育み、それを捕食するサバ等の群れが日本海から「古九頭竜湾」へ回遊した。 その時節には、 鯖入江から鯖波峡湾にも、鯖の大群が押し寄せ海面に“ナブラ”を作り波立たせた。 越前縄文人達は、そんな光景を「サバ・ナミ(鯖波)」と呼びサバの大群の到来を告げた。 人々は、鯖入江 を「サバエ(鯖江)」と呼び「サバナミ」と共に、漁場として漁網や舟を操り鯖等魚類を大量漁獲した。 「オオシホ(大塩村⇒王子保)」では集団製塩業が興り、鯖は塩漬け加工され保存されると共に、 地域の主要産品となり、地形的に要衝となった「サバエ」周辺には交易市場がたち賑わった。 山と海の幸に恵まれた古九頭竜湾南奥の周辺台地には、越前縄文人が海洋集落を作り定住し、 集団での漁労や製塩に加え、舟を巧みに操り近隣地域との海上交易でも栄え、当時としては先進的で豊かな海民生活を営んだ。 同時に、日本固有の神道に繋がる、海の生業の安寧と豊穣を、村落高台に神域を定め、集団で祈り祀る自然崇拝の縄文(海神)神道が興った。 越前縄文人は、漁猟時の山だてや海運用に湾岸の形状を表す「鼻」「崎」「江」等の呼称が付く、 縄文起源と比定される古地名も多く残した。 遙か約6千年前に名付けられた縄文人達の生活感や地域感あふれるこれ等古地名と共に、縄文(海神)神道を発祥源とする金刀比羅信仰もお社(やしろ)の形として、あたかも縄文貝塚の如く、連綿と今日に継承され残された。
式内社・鹿蒜田口神社の境内社には金刀比羅神社あります。その場所は鯖波地区のさらに山間部にあります。越前市粟田部町の金刀比羅神社は式内社・岡太神社の奥にある石象山山頂に鎮座する。この石象山を含む全体を三里山と呼ぶ。鯖江市の古社・神明社にも境内社として金刀比羅神社が鎮座している。
越前縄文人は、大量に漁獲した鯖を貴重な蛋白源として常食する習慣と共に、「浜焼き鯖」や 「ヘシコ」に繋がる鯖の塩漬け等、独特な鯖食文化を醸成した。 余剰漁獲した鯖は、交易商品 として近隣や遠くはヤマト国(奈良)辺り迄流通され「鯖街道」と呼ぶ伝統流通文化として今日に 残した。 これは正に世界に希有で、世に誇り語れる古代無形文化遺産と言える。 縄文後期に入ると、鯖波峡湾から古九頭竜湾は、山間地から激しく流出する浸食土砂で埋もれ 徐々に浅くなり、長い年月を経て鯖波峡湾は谷底平野に、鯖入江と古九頭竜湾は汽水湖から湖 沼・氾濫・湿原地帯へ、更には水田地帯へと変化した。
これ等地形変化に伴い、南の山間部から北の現福井平野へと漁猟文化は、段階的に衰退・消 滅すると共に農耕文化が拡大・発展した。 縄文海進時代の穏やかな海湾入江を根拠地に、約 4千年間以上にわたり、海洋民族として文明を発祥・発展させた越前縄文人は、大陸から流れ着 く渡来人を友好的に受け入れると共に、東シナ海文明交流圏 の中で、渡来文化・技術を旺盛に吸収し、地域の文化と産業 を発展させ、「王山」を城塞とする古代王権国家「サバエ王国」誕生の礎を造った。 崇神天皇の御代であるヤマト王権の大彦命が北陸道平定の 為、サバエに行軍した際、サバエ王権族は、海洋民族ならではの本能的戦略思考で大彦命に臣従し平定行軍に加わった。その 結果、広大な古代海洋王国:越国(高志国)の支配者に伸し 上がったとサバ読みロマンを物語ることが出来る。 王山を本拠地とした古代サバエ王権族は、やがては隣接する 「太介不(武生)」に城塞首府を移し大陸との交流・交易を更に 活発化させ、又、治水灌漑、水稲栽培や当時最先端の鉄器 や和紙の生産を振興させる等して、富国強兵な越前王権国家を造った。紀元6世紀には数多ある中央・地方豪族を斥け て、第26代継体天皇を輩出する程の大和最強の覇権王国に変貌したのだ。
鯖江と鯖波の地名には、あたかも本ブログ・タイトル「不死鳥の如く蘇る越前国」よろしく、古代歴 史ロマンと悠久の物語が秘められているのです 。 以上
<第2話に続く> 泉州 閑爺
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