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新光寺城・増井甚内の一向一揆への思いと山岳信仰 福井市片山地区



  1. 小谷山に今も残る山岳信仰・蔵王権現を祀る蔵王神社

  2. 曽我兄弟の話が伝わる片山おべろこ谷五輪塔

  3. 一向一揆と戦い散っていった新光寺城城主・増井氏


1.小谷山に今も残る山岳信仰•蔵王権現を祀る蔵王神社


伝説の呪術者・役行者が山岳仏教・修験道の祖ともいわれます。飛鳥時代の実在する人物で日本生まれの仏様ともいわれます。神社でもなくお寺でもない特別な立ち位置の中、現在もその面影は各地に残ります。片山地区に残る蔵王神社は神社と称してはいるが神社庁には認められていない。

 

福井市片山地区は鎌倉時代から室町時代にかけて栄えた地域で小谷山を中心に麓に7つの集落がありそれらをまとめて片山地区といいます。


東大寺の奈良の大仏を作った彫刻家であり高僧の行基。この行基が神亀2年(725年)に北陸を訪れ白山で修行中の泰澄大師を尋ねています。白山信仰の祖と奈良の仏教界の巨匠がここ越前で出会うというなんとも凄い話。その時、行基はこの片山地区にある新光寺に滞在しこの小谷山に薬王寺広善院を開いたと伝わります。行基は薬師如来を彫刻し薬王寺広善院の本尊とし釈迦如来、十一面観音なども刻みそれを祀った。これらは現在、杉谷白山神社に安置されていますが、薬王寺広善院のあった場所などは正確にはわかっていません。


その後、小谷山は神聖な山とされ山岳信仰の蔵王神社が祀られ、小谷山頂上には雄剣神社、雌剣神社があり白山信仰で泰澄大師が最も信仰した十一面観音をはじめ聖観音、阿弥陀如来の三所大権現を祀っています。これは白山信仰の白山平泉寺などと同じで片山地区の別の頂には白山神社もありました。(現在は麓に鎮座している)


この福井市片山地区が当時は山岳信仰の拠点のひとつとなっていて現在でもその形を残す興味深い地域だといえます。


2.曽我兄弟の話が伝わる片山おべろこ谷五輪塔


日本3大仇討ちのひとつ曽我兄弟の仇討ち。鎌倉時代、親の仇の工藤祐経を源頼朝が開催した富士山のふもとで行われた巻狩り(御家人を集め行った猟)で殺害する事件。兄はその場で切られ、弟は捕まり処刑される。この話は富士山、鎌倉などでのお話ですが、なぜかこの福井に曽我兄弟の話が多くそれにまつわるものも多い。そして、この福井市片山地区にも曽我兄弟にまつわる五重塔があります

 

片山おべろこ谷五重塔。よくみると阿弥陀如来が確認できます。3枚目は坂井市坂井町東に伝わる虎御前の墓。福井県には曽我兄弟の話がいくつか伝わっています。今回の片山地区の深堀りでその謎が少し解けました!

 

この片山おべろこ谷五重塔は謎が多いが虎御前の供養塔であると伝わっている。この虎御前曽我兄弟の兄・曽我祐成の妾(愛人)とされている。なぜ、この福井に曽我兄弟の話が多く伝わっているのか、前々から不思議に思っていましたが、旧清水町の歴史をまとめた清水町史には虎御前の生母は現在の福井市種池であると記載されている。詳細は虎御前は京都の下級武士と宿の遊女の間に生まれた美女と言われこの遊女は越前国の種池の百姓の出となっていて、これがホントだとすると福井に曽我兄弟の話が伝わっているのことに納得できます。虎御前はこの越前に曽我兄弟の供養塔としていくつか建てたといわれていて坂井市坂井町東の春日神社にも虎御前の話が伝わっています。虎御前の母が越前の出だとするとこれらの話も信憑性が高いなと感じます。


3.一向一揆と戦い散っていった新光寺城城主・増井氏


1枚目は増井氏が建てたといわれる一向一揆供養の板碑と伝わる。2枚目は新光寺城の入り口にある西光寺にある六地蔵。3枚目は近くにあった一向一揆処刑場にあった界石(境界を定める目印)と伝わり六地蔵の横にある。


 

福井市片山地区にある天台真盛宗西光寺の裏の山には片山新光寺城跡(真光寺とも記載される場合があります。)がある。この新光寺城の城主を務めたのが増井氏。増井氏は朝倉方として九頭龍川の戦いなどで一向一揆と戦ったといわれこの片山地区は一向一揆の処刑場があったと伝わります。そして西光寺の横には永正年間の板碑2基あり増井氏が一向一揆の戦いで戦死した人や処刑された人を弔うために建てられたと伝わります。この板碑の長年の雨風の影響で文字がほとんどわからない状態ですが永正7年(1510年)と読めるらしく、永正3年(1506年)の九頭龍川の戦いから始まった一向一揆との長い戦いでの中でもこの時期は特に激しい戦いが行われたといわれており、県内でも永正年間に建てられた供養のお堂など複数確認できます。また西光寺の入り口の六地蔵の横にある異様な形の石は片山処刑場にあった入り口の界石といわれています。


天正に入り織田信長が朝倉攻めに転じると新光寺城城主・増井甚内はあの富田長俊と一緒に織田方に寝返ります。その後は越前の狂犬と呼ばれる富田長俊と共に旧・朝倉家の家臣を討ち、織田の勢力を国外へ追い払い越前を一時的に治めることになりますが、共に戦っていた一向一揆の勢力と富田長俊が仲たがいを起こし争いへと発展します。そうなると数に勝る一向一揆勢の越前制圧が始まります。


加賀の一向一揆は乙部氏(福井市中角地区)、三留氏(福井市三留地区)を打ち破りこの片山新光寺城へたどり着きます。北の庄辺りの越前の一向一揆勢も片山地区へと駆けつけその数は数万にもふくれあがり増井甚内は激戦の末戦死したといわれています。


この天正年間の越前を生き抜くのは本当に大変なこと。この増井氏も一向一揆や織田信長の戦国の渦に巻き込まれた武将のひとり。増井氏が一向一揆に対する対応や片山地区の関りなどとても興味深い地域だと思います。

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