織田信長が一乗谷城を落とし越前を平定した後、朝倉家の元家臣達と一向一揆によって織田信長の勢力を追い払いますが、今度は朝倉家の旧家臣達と一向一揆での争いに発展します。
その際に登場するのが下間頼照(しもつま らいしょう)です。下間氏は石山本願寺の顕如に仕えた一族で織田信長との戦いによく出てきます。朝倉家の旧家臣と決裂した際、顕如がこの下間頼照を総大将として送り込みます。頼照は旧家臣達を討ち破り越前を一向一揆が支配する門徒領国にしました。そして、下間頼照は越前守護と加賀支配を任せられます。
しかし、この頼照は織田信長との戦いに備えるため、越前で圧政を行います。これに対し地元・越前の他の仏教宗派はもちろん一向一揆の中でも不満が高まります。そんな越前の不満を力で押さえつけた頼照でしたが織田信長が1575年8月に攻めてくると織田信長に寝返るものが続出。一揆勢はまとまりもなく1万2千人以上の死者を出したといわれます。
そんな下間頼照が加賀へ逃げる際にこの三国町下野の地で地元住民(三国町下野、野中、黒目、米納津の住民)に竹槍で襲われて命を奪われます。その時に『この俺に何の恨みがある!くやしい!子孫7代まで祟ってやる!』(注・現代風に言葉変えてます)と叫びながら息絶えたと伝わります。そのため現在、この地域で竹藪を造るものはいません。(資料:神社内の石碑)
この下間頼照の最後の捨てゼリフや、一向一揆の中では織田信長との戦いを望む主戦論者だったといわれておりかなり負けん気の強い方だったのではないかと思います。関西弁をしゃべって負けん気で圧政を行う。それは越前では偉そう・わがままに見えたりしてなかなか受け入れられなかったのではないかと思います。
織田信長はこの下間頼照の首を大変喜んだと伝わります。
地元民ではないですが、下間頼照が成仏していただくよう手を合わせます!
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