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越前松平家の誕生!結城秀康はなぜ越前へ来たのか?

更新日:2021年6月18日



関ヶ原の戦いのあと越前68万石を拝領された結城秀康。徳川家康はなぜ結城秀康にこの越前国を与えたのか??


関ヶ原の戦いの後、徳川家康がもっとも恐れたシナリオが前田家と豊臣家、そして朝廷が手を結ぶこと。地形的に加賀、大阪、京の3つのトライアングルの中に越前の結城秀康、彦根の井伊家、若狭の京極氏を置くことで家康はこの最悪のシナリオを回避したいと考えていたことがわかります。そして真っ先にターゲットにされたのが加賀前田家です。


結城秀康は越前に入ると加賀との国境に近いあわら市細呂木地区に関所を設け重臣・多賀谷三経にこの辺り3万2000石を与えました。その家臣団は200人にものぼったといわれ、山々に囲まれた田園地帯にできた異様な関所となったのではないかと考えます。



加賀前田家は江戸や大阪、京都へ向かう際必ずこの細呂木の関所を通らなければならず多賀谷三経は関所を通る前田家や加賀の人々を徹底的にチェックしたといわれ当時、日本一厳しい関所ともいわれました。


しかし、前田家は芳春院(前田利家の正室・まつ)が人質として江戸に向かうなどの徳川家に対して忠義を明確にしたため、徳川家康のターゲットは大阪の豊臣家に移ることになります。


慶長11年(1606年)4月に結城秀康はこの越前で死去。病名は梅毒と言われている。関ケ原の戦いは慶長5年(1600年)9月15日ですのでこの越前国に住んでいた期間は約5年。その期間中も職務のため京などに赴いていたのでこの越前国にいた時間は短いですが関ケ原の戦いの後の越前国の方向性を示した貴重な期間となります。


写真は福井城跡・県庁前にある結城秀康像、あわら市細呂木地区にある細呂木関所跡、越前東照宮・佐佳枝廼社。佐佳枝廼社は御祭神に徳川家康、結城秀康、松平春嶽を祀る。




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