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坂井郡33座のひとつ鵜屎神社は??【式内社】継体天皇は鵜の排泄物を儀式で利用?三国町川崎の鵜森神社か!

式内社≪坂井郡33座≫坂井市三国町川崎の鵜森神社

 越前国に鎮座する式内社を1社づつクローズアップ!

 継体天皇の影響もあり全国と比べても式内社の多い越前国。空白の時代といわれる古墳時代や継体天皇の謎が社伝に残っていることが多く越前国の式内社を調べることはその謎に迫る事でもあります!

式内社とは?不死鳥の如く蘇る越前国

 式内社とは延喜式と呼ばれる平安時代中期にまとめられた書物にまとめられた神社。国の決まりや儀式のやり方などが記載された書物でそのすべてが現在も現存している貴重な書物(国宝)。その9,10巻には2861社の神社がまとめられている。神社名と格、簡単な場所が記載された名簿のようなものでこの9,10巻を延喜式神名帳と呼ぶ。

越前国坂井郡33座【式内社】不死鳥の如く蘇る越前国

  坂井郡とは現在の坂井市・あわら市・福井市の一部と考えられ延喜式神名帳には33社が記載されています。これは畿内を除くと突出して多く当時の坂井郡が朝廷と深く関わっていたことがわかります。また、越前が輩出した継体天皇の母・振媛が坂井郡出身という事から坂井郡にはかなり大きな豪族がいたことは間違いありません。

坂井市三国町川崎に鎮座する鵜森神社の参道

今回のクローズアップ式内社は


式内社 鵜屎神社

鎮座地 坂井市三国町川崎

御祭神 伊弉册尊、天兒屋根命、天照皇大神、大日孁貴命

神紋  

境内社 八幡神社、恵比須神社

御朱印 ー


三国町川崎に鎮座する鵜森神社は鵜屎神社の比定社と言われることが多い。ただ、いろいろ不明な点は多く詳細は分かっていない。


福井県坂井市三国町川崎の鵜森神社の社伝碑

鵜森神社由来記


 今より約一千五百年の昔、勅命により三国湊口の岩山を切り通して当地方一帯の水を海へ流すことになっ た 男大迹王は この至難な一大偉業を達成するには 先ず水神の鎮魂を図り 神々様の御守護を賜わって人事をつくさんと決意され 当時湖上に浮ぶこの森に天照大神を祭神とし 宮居をたてたのがこの神社であり ます 工事は十八年の長きに亘りましたが 殆んど毎日参拝され真心こめて大願成就をお祈りしたと伝えら れています


 男大迹王 御年五十八歳の時 皇位継承のため時の 朝廷に迎えられて 人皇第二十六代継体天皇となられ ましたが 当時都に不足勝な鵜屎をこの森より朝廷へ 献上する道を開かれたと伝えられています 献上はそ の後長年に亘って続けられ 次のような尊くも有難い 宣下を賜わったのであります 今より約一千二百年の 昔のことであります


 「境内に樹木繁茂し 数千の鵜巣食い蕭々たる宮居 なり 桓武天皇の御宇延暦年中鵜屎森の宣下あり 鎮守府将軍坂上田村麻呂社領を寄付す」


 現在石の鳥居の正面に見られるあの「鵜屎宮」の石額こそ誠に貴重な宝であります 尚鵜屎は古代に於て 化粧用品として大変重要な物品であり これを少しで も多く手に入るよう神様にお祈りしたのであります


 当社は 古代の名君とたゝえられる継体天皇並に鵜屎献上により古代の朝廷とかゝわりあいの深い由緒あるあら高い宮居でありました


 茲に謹んで当社のあらましを記録し 長く後世に 残さんとするものであります


 昭和五十五年(一九八〇)三月吉日

 本殿新築を記念して


 三国町池味区住人 大島嘉則謹書

坂井市三国町川崎の鵜森神社拝殿内部

由緒を確認するといろいろなことが分かりとても興味深いです。ひとつは坂井平野は当時大きく水に浸かった湖でこの水を海へと流す治水事業を継体天皇(男大迹王)は18年かけて行ったと記載されていることだ。現在に伝わる継体天皇の話では三国の河口にある岩山を切り崩したことで坂井平野に貯まった水はあっという間に海に流れたと伝わる。しかし鵜森神社に伝わる社伝には18年の長きにわたったとあります。


この社伝によれば継体天皇は18年以上ここ福井県坂井市・あわら市・福井市の一部を含む坂井郡を治めたという事


 そして、もうひとつは鳥の屎(くそ)を化粧用品として使ったとされること。確かに鳥の屎は白いものが多く当時は大切な色彩のもととして使われたことは不思議なことではない。しかし、その鳥の屎を朝廷へ献上するのはとても面白い話だなと思います。

坂井市三国町川崎の鵜森神社境内は木々が茂り鳥も多い

≪社伝から読み取る3つのポイント≫


・鵜屎神社で採れた鳥の屎は化粧用として朝廷へ贈られた。


・当時は湖上に浮かぶ森に天照大神を祀り宮居を建てたのが鵜屎神社の始まり。


・継体天皇は18年の年月を坂井平野の治水に努めた。





■鵜森神社を比定社と認めない神社庁のなぜ??もとは白山社??


 この鵜森神社鵜屎神社の比定社とすることに神社庁や歴史詳しい方の間では賛否が分かれています。ここを式内社と認められない理由のひとつに天照大神を祀ったのが鵜屎神社の始まりという点だ。この鵜森神社はもともと白山社だと言われている。天照大神を祀ったとすれば神明社になる。またここ三国町川崎の場所は九頭龍川、兵庫川、竹田川の合流地点で標高が低い。古くは沼地であったと考えられ水害の多い地域でもある。そんな川崎地区に社伝に記載のある湖上に浮かぶ森があっただろうか?



三国町覚善の白山神社は鵜屎神社の比定社?

 ここでひとつ気になる地域はあります。三国町覚善地区の白山神社です。

 少しだけ盛り上がった地形で湖上に浮かぶ森のイメージにはあっています。さらにこの三国町覚善の白山神社には境内社に斎神社があります。この斎神社とはもともと朝廷の儀式などを司る斎宮の跡と考えられます。斎宮は天照大神を奉仕する処女の女性が仕えたとされる。そしてここ三国町覚善に鎮座する斎神社には水田の神々を祀るために建立され未婚の乙女が田踊りを神事があったと言われている。朝廷の斎宮や斎神社に共通する点は若い女性と儀式です。そして、先ほどの鵜屎神社に話を戻す。


 当時の化粧とは女性を美しくする現在のイメ

坂井市三国町覚善の斎神社石柱

ージではなく、儀式に参加する女性などを神々に捧げるために化粧させたと考えるとこの斎神社で行われた儀式と化粧が結びついてきます。さらに地形、天照大神を御祭神として祀る三国町覚善の白山神社、天照大神を奉仕する女性と関係の強い斎神社。これらの点から私はこの三国町覚善の白山神社が鵜屎神社の比定社と考えます。


 このことを調べるには社伝にある坂上田村麻呂が社領を寄付したとあることも面白い話だと思います。これは覚善地区は蓮如道に近く古くから道が整備されていた点です。坂上田村麻呂がこの辺りを通り加賀方面へ向かったと考えると自然な流れです。ただこれは推測の話なのでもっと周辺の神社の社伝などを深堀して話を固めていく必要があります。



 鵜屎神社は他の神社と違い化粧という変わった言葉がキーワードになっています。

 この化粧という言葉と継体天皇の時代の習慣、この三国町川崎や覚善地区を考えるとなかなか面白い古代ロマンが想像できます。

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